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シワだらけの特攻隊 〜時を越える夢と希望の七つボタン〜

「ポンッ。ポンッ。」
機内のアナウンス音とともに鳴るその音。

一気にエンジンがかかり、ゴオオオオーーっという音が機内に響き渡る。その爆音とともに、急加速、心臓が浮くような、ドキドキする感覚。

ジェットコースター気分を味わっているうちに、ふわっと浮く体。


ーーー 飛行機が離陸した。


どんどんと飛行機は空高く上昇する。さっきまでいた街が瞬く間に小さくなり、青い海がまるで遠い空の彼方のように私の足元に広がる。


飛行機が空に向かって上昇を続ける時、私の頭にはいつもよぎるものがある。この日もそうだった。そして自然と涙が頬をつたう。


「彼も、この空を飛びたかっただろうか。大空を高く舞う鳥のように、この空を飛びたかっただろうか」 


私の目の前に広がる、どこまでも果てしない大きな空を見つめながら、そんなことを思った。


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大空に舞え、少年飛行兵!  憧れの七つボタン

今から93年前。広島の田舎で、少年は生まれた。

15の時、近所の一つ上の大好きなお兄さんが特攻隊になるといい、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願した。その胸には、キラリと光る七つのボタンがあった。

大日本帝国海軍における海軍飛行予科練習生の制服には、海軍の象徴である桜と錨が描かれた七つのボタンがついている。「七つボタン」とは予科練を表す隠語である。


少年はその七つボタンのカッコよさに引かれ、翌年、お兄さんを追うように予科練へと志願した。


“ お国のために命を捧げる。お国のために死ねるのであれば、それは本望だ ” 

そう教育された。

命は惜しくない。ただただ、お国のために、この命を捧げるのだ。

少年に迷いや恐怖はない。その後、少年は地元広島を離れ、名古屋や山口、岡山など、各地を転々とし、日々訓練に明け暮れた。



終戦。お兄さんとの別れ

終戦間近の1945年5月末日。

少年の元に一本の連絡が入った。

大好きなお兄さんが、見事、お国のために大役を果たされたというのだ。

そう、みんなが憧れる零戦を操縦し、片道切符の燃料だけをつみ、2度と帰ることのない旅路へと、大空へと、旅立っていってしまったのだ。


その当時、日本は危機的状況にあった。戦闘機もなくなり、少年は乗る飛行機がなくなった。

そのため、今度は回転という人間魚雷で出撃するため、回転への志願書にサインをし、山口県の大津島へ渡った。今度は戦闘機操縦の訓練ではなく、人間魚雷の操縦の訓練が始まった。




1945年8月15日。 終戦。


あと3日。あと3日だった。

少年は、お国のために旅立つことなく、大津島にて、終戦を迎えた。

憧れの七つボタンを着て大空へ羽ばたくという少年の夢は終わり、大好きなお兄さんを追える希望の光は閉ざされ、そして、日本の悲惨な戦いすべてが、幕を閉じたのだった。



あれから70年

「何でわしだけ生き残ったんじゃと思うと、今でも涙が出るよ。

ほんまにな、死ぬのは怖くなかったんよ。そういう教育じゃけぇな。

わしは空を飛ぶことができんかった、しかも飛行機にも乗ったことがない、ダメな特攻隊よ。」

かつての少年と私は、お酒を飲みながら話していた。

今でも当時の話をすると目をキラキラさせ、昨日のことのように話をしてくれる。


「でもさ、おじいちゃん。おじいちゃんが生きて帰ってきてくれたおかげで、お父さんが生まれて、こうして私もここに生きてる。おじいちゃんが突撃して死んでたら、今こうしてここの場には誰もいなかったことになるよ〜!」


「そうじゃの。わし、生きとってよかったわ。今こんな美味い酒をみんなと飲めるのも、生きて帰ってこれたけぇじゃの。」


白髪になったシワだらけの少年は、そう笑顔で言うと、おちょこのお酒を一気に飲み干した。

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海軍特攻基地へ

祖母が2年前に亡くなり、当時の少年(祖父)は急に元気がなくなった。食が細くなり、もともと小柄な体がさらに小さくなった。膝も痛くなり、以前のように動くことも少なくなった。


そんな祖父に、私たち家族から、最後の提案をした。


「おじいちゃんが行きたかった地。お兄さんとの再会できる地。海軍の特攻基地のある、鹿児島県 鹿屋  に行こう!!!!」


体力に自信のない祖父ははじめは乗り気ではなかったが、次第にワクワクし始めたようで、旅行までの日々、運動をしたりしてコンディションを整えていた。(・・・かわいい。)



お兄さんとの感動の再会

5月の連休を利用し、私たち家族は祖父を連れ、鹿児島県へ旅立った。本当は飛行機に乗せてあげたかったところだが、90歳間近であったため体の面の心配もあり、新幹線と車で向かった。


航空基地資料館についた。

そこには、かつての予科練の遺品がたくさん残されていた。

手紙を一つづつ読んでいると、涙が止まらない。

特攻前夜に母に宛てて書かれた手紙、本当は怖くて怖くて死にたくないと泣きながら書かれた手紙、残された家族を妻と長男に託す父からの手紙、死に対する恐怖が赤裸々に綴られた少年の弱気な手紙。


当時特攻した方々の写真を見ると、わずか17歳のまだ幼い少年のような人までいる。
特攻した日にち順に、名前と写真がずらりと壁に飾られていた。


そんな中、ふと顔を上げると、祖父の姿があった。食い入るように、1人の少年を見つめていた。




お兄さんだった。

70年の時を超え、ようやく再会した。



「ようやく会えたのぅ....。ここに眠っとったんか。迎えにきましたぞ。」

か細い声で、写真に話しかける。


普段全く泣かない祖父。祖母の葬式の時も、息子の不慮の死の時も、喪主としての責任からか全く泣いたことはなかった。

そんな祖父が、目に涙を浮かべて、お兄さんの写真をただひたすら、ずーっと眺めていた。


その後も、お兄さんの情報を集めるべく、おそらくあまり開く人はいないであろう資料を机に大量に並べ、真剣に読み漁っていた。

そんな彼の隣には、かつての憧れの七つボタンに身を包んだお兄さんが、すぐそばにいるような気がした。
70年の時を経て、今ここで、お兄さんが生きていることを、私は確信した。



調べるにつれ、突撃当日、お兄さんが乗っていた戦闘機の名前や番号、何時何分に何処から旅立ったのか等、細かい情報が分かってきた。
そして、お兄さんは種子島沖合で敵に撃たれ撃沈した、ということも分かった。


祖父は泣いていた。

私は小さくなったかつての飛行兵の肩を抱き、そっとさすることしか出来なかった。



最後に

胸が張り裂けそうになるほどの苦しいやるせない想いを無理矢理押し込み、国や家族・愛する人のために、二度と帰ることのできない片道切符を手にし突撃していった、当時20歳前後の若き特攻隊員。

私たちは、彼らの存在が確かにあった事を、忘れてはいけない。


また、憧れの七つボタンを胸に煌めかせ、厳しい訓練を受けた、大空へ舞うことのなかった少年飛行兵。

戦死した仲間を想い、生き残ってしまったことに後悔して今を生きている、生き残った者。

未だ、祖父は飛行機に乗ったことはない。きっと戦後、飛行機に乗ることはできたであろう。しかし、彼は大空に2度ど羽ばたきたいとは思わなかった。その真相はわからない。ただ、大空に羽ばたくと、戦死した仲間を思い出し、生きることへの後ろめたさ、辛い想いが、こみ上げてくるのであろう。

生き残ってることもまた、苦しく残酷なのだ。



そんな人がいることを、少しでも、ほんの少しだけでもいいから、

一人でも多くの人に届けたいという一心で、このnoteを書きました。


2020年8月15日、日本は終戦75年を迎えます。

節目を迎えるこの夏に、私はみなさんに伝えたい。


“ 今の平和な日本があるのは、過去に想像も絶する苦しみや悲しみを乗り越えた先人たちがいるからだ。

そして、私たちにとって大切なのは、その先人たちがいたことを、その先人たちの想いを、年に1度でも良いから思い出し、そしてそれを、後世に伝えることだ。

そして、私たちは、同じ過ちは二度と繰り返してはならない。"


終戦記念日を前に、みなさんが少しでも過去を思い出すきっかけになると、幸いだ。



Yumiko

Twitter:https://mobile.twitter.com/kawamoo_n_n_



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特攻隊員の像

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当時の祖父の七つボタンの制服 (作業着) と千人針の腹巻。

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血書。予科練へ出願した際、出発の時に近所の方々が書いてくれたそうだ。

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かつての仲間が眠る土地にて。

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当時16歳の予科練時代の祖父 と、70年の時を経て初めて袖を通した時。
祖父の敬礼はとても綺麗だ。この敬礼はなかなか真似できない。

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70年の時を超え、特攻隊を目指したかつての予科練が、小さくシワだらけになったけれども、確かに戻って来た瞬間だった。




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