「鬼滅の刃」から学ぶコーチング的な世界観
皆さん、「鬼滅の刃」を観ていますか?
私は、アニメ版を見終わり、Youtubeで「鬼滅の刃」の解説動画を漁り始めてしまいました👹。
この漫画へのスポットライトには、いろいろな当て方があると思うのですが、今日は「コーチング」目線でスポットライトを当てさせてください。(そんなにネタバレしてないです)
「鬼滅の刃」遊郭編のオープニングテーマ曲、Aimerさんの『残響散歌』を聴きながらどうぞ。
①竈門炭治郎の共感力とメタ認知
主人公の炭治郎。鬼になってしまった妹を人に戻すことを大きなミッションにしています。そのために、鬼との戦いを経るたびに強くなっていく姿は、見る者を惹きつけます。
ただ、彼の本質的な魅力は他にあります。共感力とメタ認知力です。
炭治郎は、鬼を狩る鬼殺隊に所属しているにもかかわらず、切った鬼の苦しい過去に理解し、共感し、優しい眼差しを向けます。それだけでなく、自分も鬼になっていた可能性すらあるんだというセリフを口にし、実に自分自身を俯瞰したものの見方をします。
この炭治郎のスタンスや振る舞いは、「やられたからやり返す」因縁という捉え方を根底にするようなバトル漫画と一線を画すものにしています。炭治郎は、いわば人と鬼を繋ぐ役割を果たしています。このことで、物語の深みが増していると感じます。
②私たちは鬼狩りになるつもりが、鬼になっているかもしれない
それぞれに強い信念を持った鬼殺隊と鬼は激しい戦いを繰り広げます。それぞれが自分たちが正しいと思い込み、対立する関係は決して溶け合うことはありません。
私たちは、自分の物事の捉え方が「正しい」ものと思い込み、自分から見て、意にそぐわないものを否定しようとすることがあります。そして、その判断をしている自分に自覚的にならないと、私たちは鬼を狩るつもりが、いつの間にか、怒りに飼われた鬼になっているリスクがあります。
③鬼殺隊と鬼の違いは「目的(ゴール)」にある
前述したように、鬼も鬼殺隊も、何らかの正義(価値基準)を持ち、物事を判断をし、戦っています。そんな彼らを見ると、自分たちの正義を押し付け合っている状況で、どちらが本当の鬼なのか、わからなくなる感覚もあります。
ただ、私たちが鬼に対して感じる違和感は大きなものです。双方の違いはなんでしょうか。
ここで、立ち返りたいのは、双方の活動の「目的」です。鬼は自分自身にのみフォーカスを当てている一方で、鬼殺隊は自分を含めた人全てにフォーカスを当てています。ここに大きな違いがありそうです。
④「鬼滅の刃」は私たちの中にある鬼を成仏させるコーチング的な物語
鬼は、願いが果たされないことに対する怒りや寂しさ、そして、それに起因する攻撃や諦めを持っています。それと同じようなものを自分の中に感じる時、私たちは自分の中に「鬼」を感じるのかもしれません。
漫画・アニメでは、鬼と鬼殺隊を別の人間として、対比させていますが、実は、この二つが一人の人間の中にあると捉えることができます。人の中に潜む鬼にスポットライトを当て、理解し、共感し、成仏させる。
「鬼滅の刃」における鬼殺隊と鬼の対決、もしくは鬼滅の刃全体が、大きなコーチングの物語のようにも見えてきます。
おわりに
鬼滅の刃は、本当に面白いなぁということで、最後のひとつ。
自分の中の「鬼的な何か」に気づいた時の注意事項。
それは、原因探しをしたり、否定・評価、消そうとするのではなく、「あぁ、確かにあるな」と「そうだったんだね」と眺めることが大切かと思います。
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みんな大好き「鬼滅の刃」をこんな捉え方もあるかもしれないなと感じていただけると非常に嬉しいです。
最後の最後に、感覚・知覚・認知に関する興味深いnoteを紹介いたします。
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