non-noのきもちが「ゼイリブ」だった
近ごろ、言葉の意味がわからないことが多い。
ボケてきた、ってのもある。
それとは別で生活する中で色々とわかったフリをするのが心底疲れることに気付いて、わからないものはわからないと受け入れたら、世の中まじでわからないことだらけだった。
例えを考えている時に、ふと思いついたのが「non-no」という雑誌の表紙にデカデカと書かれている文章。
圧倒的抽象性が混沌としたその文章は、はぁ?のオンパレード。意味がわからすぎて「スキャナーズ」さながらに脳が爆発しそうだけど、同時にすごく興味深くてそそられる。まるで現代文明そのものの象徴みたい。
「4月は”おしゃれ運命”の変えどき」
3月号「タグ映え服なら今から春までめちゃ盛れる」
「どタイプすぎる夏コーデ」
「好感力で決める春デビュー」
すごく抽象的で曖昧な言葉を大げさに、それこそバラエティのお笑い芸人やグラビアアイドルのリアクションのように派手な言葉でアクションしてみせている。
端的に流行りの服に身を包んだ女性の形骸化した姿のそれのようでもある。
楽しそうだから砕いてみよう。
「4月は”おしゃれ運命”の変えどき」
難しいぞ!解けるか解けないかのギリギリの数式みたい。
主題は、”おしゃれ運命”なのは言わずもがな。こいつは一体何だ。なんなんだ。なぜ4月は、それの変えどきなんだ。
まずは運命を冷静におさらい。
一般的な運命という言葉の意味は、自分の意思とは無関係に巡ってくる吉凶禍福。
哲学的には、今この瞬間の巡り合わせは、ずっとずっと昔の自分の判断・決断によって既にそうなることは巡り巡って決まっていた、というのが運命論。
どうでもいいけど運命であることは、事後の主観的な判断、思い込みだよね。
「これは運命だった」とか「運命的な出会い」もしかり、これから起きる運命について「運命的な出会い」を認識することなんて絶対にできない。
タイムマシンで「運命」と思うその瞬間をあらゆるパターンでトライしない限り、それが「運命」であるかどうかは絶対立証できない。
つまり「運命」は、どこまでいってもまやかしなファンタジックな言葉で、タイムマシンが実用化されまでは、この言葉はこの地球にあってもなくても良い概念。
脱線したけど、運命ってのはとんちんかんで素敵な言葉ということ。言葉でしかなく、本質はない。
つぎ、おしゃれとは?
そもそもおしゃれは、未だに本当に意味がわかってないので良い機会。
まずこちらから完全に拝借した言葉で。
「お洒落とは、化粧や服装など身なりに気を配ること。美しく装うこと」らしい。
難易度が高く、抽象的で複雑な概念。
そもそもお洒落という概念から脱線しそうだけど
気を配るは、その言葉・行動の本質が「対他者・対社会」にあって、望まれることや必要とされることを想像し、その範疇で行動することを指す。
たとえば学生身分の制服や頭髪しかり、そこに自由はないがそうせざる得ない場合もある。
社会に出ても女性の化粧が暗黙の内に義務化されているのも、気を配るの範疇だろう。
つまり、社会性に準じた装いをすることも、おしゃれということらしい。納得はできないが。
つぎ、美しく装うこと。に移りたいんだけど、この「美しい」っていう概念がとてつもなく難題だ。
美しいは、膨大な意味を含んだ抽象的な主観だ。共通言語として認識するのはあまりにも難しい。例えばタイの農村育ちの人と、ぼくが「non-noのモデルさん」を見て同じように美しいと感じれる可能性は極めていか低いし、それこそ喫茶店で横に座った見ず知らずの歳の近い方ともキルスティン・ダンストを見ながらその美しさについて語り合えるとも思えない。
美しいは、絶対的に囚われた主観に過ぎない。のはずが、美しいが具象化されている。これが美しいであり、それ以外はそうではないとでも言いたいかのように。「non-no」やその他の雑誌が操作する美しさに踊らされ、消費させられる。「ゼイリブ」は本物だなーとつくづく思う。
それはさておき、「美しく装う」というのには概念としてふたつあることが以上のことからもわかる。「主観的(自分が美しいと思う)な美しさで自分を飾る」ことと、「客観的(メディアが美しいと決めた)な美しさで自分を飾る」だ。
「non-no」が謳う「おしゃれ」とは後者だからつまり「OBEY」だ。(ゼイリブ参照)
A運命とBおしゃれの概念が出たので、足してみよう。
「自分の意思とは無関係に巡ってくるOBEY」すごい!なんだか知らないけど、それっぽくてすごいぞ。次だ、次。
4月は「自分の意思とは無関係に巡ってくるOBEY」の変えどき。はぁ?おもしれえこと言うじゃねえか。矛盾しているが、これ自体がメタ構造だから、これまでのOBEYをさらなるOBEYによって一層して、さらなる購買意欲。
なんだゼイリブじゃねえか、やっぱり。