人を見た目で判断するな、とは
見た目について
ぼくは人を見た目で判断する。哀しいかな、外見にはその人の願望や理念や思想が現れている。それを読み取ることはさほど難しいことではない。それこそパンク・ロックを歌う人がパンクの思想を装うように、見た目は主張のひとつにもなりえる。自分の意思で選択したものには必ず、それを選んだ理由がそこに否が応でも宿ってしまう。
眼鏡ではなくコンタクトレンズにしている理由。その一方で眼鏡を掛けている理由。化粧を濃くするのにも、黒い服を選ぶのにも意識せずとも意思が宿っている。コンプレックスを隠すのが目的なのか、単に見栄の現れなのか、はたまた覚悟や自信のあらわれなのか。
これはなにも身に纏うものだけの話ではなく、例えば日頃から笑顔が多い方の皺や意識していない時の表情の作り方にも深層心理が現れる。常日頃から口角を上げようと心がけているのか、はたまた無頓着に何も装わないか。仕草や癖にもそれをする理由があり、同時にそれを意図的にやるか無意識でやっているかでも真意は異なる。
全ての人は、見た目で判断できるぐらいの情報を外側(社会や他者)に対して発している。同時に人はそれを瞬時に受け取り、それを判断する高度な思考回路がある。それを意識すれば、その人を見た目で判断することはできてしまう。ただ例外として、その全てを意識して完全に偽りを演じ切っている人もいて、そういう人は「エスター」のようで恐ろしい。
ステレオタイプについて
「ズートピア」というディズニーの映画はステレオタイプについての映画でもあったと思う。擬人化させた動物の姿は、人種の違いのメタファーであり、それを通して描かれていたのがそれぞれがそれぞれの動物に対する決めつけや先入観、思い込みや固定観念、そして差別や偏見。「ズートピア」が己のステレオタイプで人々を判断しまくるトランプの就任前の映画なわかだから、いかに世の中にそれが蔓延っているかがわかる。
人を見た目で判断することとステレオタイプは絶対に違う。
ステレオタイプは見る前から判断する行為で、見た目で判断は、面と向かって判断する行為だ。全く違う。全ての中国人は日本人に敵意を持っていると思いこむのはステレオタイプ。個人個人はただの人だ。会ってから敵意があるのかないのか判断すべきではないか。
ステレオタイプは恥じるべきだが、見た目で判断することは恥じる必要はない。想像力があるのだから。