自分には、価値があるのか。
自分の発想には、自分のつくるものには、自分の仕事には、どれくらいの価値があるのか。もしくは価値などないのか。客観的に計ったら、本当のところどうなんだろう。と、ときどき考える(まったくもって自意識過剰な話だが)。でも、自然の創造物であれ、人間の創造物であれ、この世の万物を正確に計れる客観的なものさしなどないのかもしれない、とも考える。ものごとの価値を決めるのはいつも人間であって、それは時代の支配者や社会のムードや技術の進化によっていつも変化していくものだし、個人や集団それぞれの嗜好や必要性や事情によってその基準は恣意的にころころ変わるものだから。つまり、この世界で価値と呼ばれるものは、時代とか社会とか何かの集団とか個人とか、ようするにぜんぶ他人によって決められてしまうものなんだ、そのときどきの他人の思惑なしには成立しないものなんだ。そうか、なるほど、そんなふうに他人の基準で設定される曖昧模糊なものを気にするなんて無意味だ、誰かによって決められてしまうものなら自分の価値なんてどうでもいいや、自分の思うように自分の尺度で納得できるものをつくって生きていこう。と、シンプルに考えられたら気が楽なのだろうけど、そう気持ちよく割り切れずにいたりもする。だって、やっぱり気になるもの、周りから見て自分には価値があるのか、客観的に見て自分のつくるものにはどれくらいの価値があるのか、たぶんこれからも他人から押しつけられる自分の価値を気にしながら生きていくのだろう。まったくもって信用するに足らない、あやふやなものだからこそ、自分の価値もある日とつぜん急上昇したりするかもしれないと密かに期待しつつ(あるいは急降下するかもしれないけど)。でも一方で、自分の価値が他の人間によって決められてしまうものだとしたら、自分もこの世の万物の価値を決められるんだ、コントロールできるんだ、ということにも気づく。そう、すべてのものごとの価値なんて、どうにでもなるものなんだ、僕たちひとりひとりの手によって。僕たちひとりひとりの胸先三寸で。