お盆なのでそれっぽい話をしてみる
私の実家は代々柴犬を飼ってきて、2年前に亡くなった最後の柴犬で5代目だった。
お盆の時期になると、母と私は必ずアゲハ蝶を見かける。アゲハ蝶は3代目のモモの生まれ変わりだ!と母と私は信じている。モモが死んだ後、やたらアゲハ蝶を見るようになったから、というのが理由だが、今年も真夏の炎天下にヒラヒラと飛ぶアゲハ蝶を新橋のど真ん中で見かけて、「このクソ暑いのにわざわざ会いにきてくれてありがとう」と言ったら、いつまでもついてきてくれた。流石に会社のビルまでは入ってこなかった。そういうところを弁えているのも、生前とても賢かったモモを想起させた。
モモはムギという柴犬と2頭で実家に暮らしていたが、モモの方がお姉さんだったので先に亡くなり、数年間、家にいる犬はムギ一頭だった。ムギは我が家に来た日から既に不動のパイセンとしてモモがいたので(なんかやらかしてはモモにムキー!と指導されているのを時々見かけた。犬も年下の面倒みたりするんだなと思った)、突然モモがいなくなったことに驚いたらしく、しばらく食欲と元気がなかったけど、元々磯野カツオみたいな性格なのでそのうち元気になった。
そんなムギも歳をとってヨボヨボしはじめ、人間で言うところの認知症になり、夜中に吠えまくったり家の中で粗相をしたり母はお世話が大変だったと思う。「でも可愛いの♥️」と言いながらムギが漏らしたうんこを片付けている母が菩薩に見えた。後で聞けば私や弟が赤ん坊の頃を思い出しながらお世話していたのだという。それはそれで泣ける。人間は歳をとって赤ん坊に還るというけど犬もそうなんだなと思いながら、デヴィッド・フィンチャーの『ベンジャミン・バトンの数奇な人生』という映画を思い出していた。
犬の認知症の特徴のひとつに「前にしか進めなくなる」というのがある。だからタンスの隙間などに頭がつっかえると後ろに引けなくなり、パニックになってしまうことが時々あった。抜けない!助けろ!とぎゃんぎゃん騒いでいるので、ほんとバカだねえと言いながら引っ張り出してやると、何事もなかったかのようにスンッと誇り高い表情に戻ってまたウロウロし出すのは、菩薩でない私でも可愛いなと思った。
ムギは実家の2階のベランダで日向ぼっこするのが小さい頃からのお気に入りで、夏以外は大体ベランダにいた。ある日も、よしよしムギはベランダで寝てるなーと母が思いながら家事をしていたら、家の外から「ギャイン」というムギの悲鳴が聞こえたそうだ。
びっくりした母はベランダにダッシュしてムギを探したけど、ムギはいなかった。もちろん階下にもいない。これはもしや…ベランダから落ちた!?
と思って恐る恐るベランダの柵越しに下を覗いたけど、どこにもいなかった。
どこ行った?と思って見回すと、家の前の私道をムギが孤高の表情でヨボヨボ歩いているのが見えたと言う。慌てて降りて保護して、病院に連れて行ったけど打撲している以外は異常なしだった。(2階から落ちたのに?とお医者さんも不思議そうだったらしい)
前にしか進めないムギはなんかのはずみでベランダの柵に顔が挟まり、ぎゅむぎゅむ無理やり前進するうちに歳をとって痩せてきたこともあって柵の間をすり抜けたようだ。
家の横にスイカズラが植えられていてちょうど満開だったのだけど、1箇所、大量にスイカズラの花が地面に落ちている場所があって、おそらくムギはスイカズラの花の上に一度落下し、花がクッションとなったおかげで勢いが弱まって、無事に地面に落ちたということみたいだ。
そのスイカズラの花の周りを、ずっと離れずに大きな黒いアゲハ蝶がひらひらと飛んでいたそうだ。「あれはモモがムギを助けてくれたんだね」と母が言っていた。「出来の悪い弟を持つと大変だわ」と言ってそうだね、と母と笑った。
そのムギもいなくなり、その後、意を決して最後に迎えた5代目のマメも5歳で亡くなってしまい、実家では両親が二人きりで暮らしている。
でも、私たちのところには時々アゲハ蝶が遊びにきてくれる。母は時々家の中に柴犬の気配を感じるという。お互いの目を見て、手で触れられないのは少し寂しいけど、それだけでじゅうぶんかもなあ、と思う。