将棋の謎、「打歩詰」はいつできたのか?
第37期竜王戦は2024年10月19日~20日にかけて第2局が福井県あわら市で開催されました。結果は挑戦者の佐々木勇気八段が勝利し、1勝1敗のタイになりました。
ところで、この対局に合わせる形で「醉象(すいぞう)」駒が公開されるというニュースを目にしました。ここで展示されている醉象・太子駒は一乗谷朝倉氏遺跡から出土したもので、国の重要文化財に指定されています。
醉象は将棋の歴史の上で重要な駒なのですが、今回は醉象を含め、現代の将棋のルールがいつどのように成立したのかを、過去の文献から解説・考察していきたいと思います。
この記事の内容を3行でいうと
現代の将棋のルールは戦国時代に成立した
由来や理由がはっきりしないのは「打歩詰」
打歩詰はどのように将棋に取り込まれたのか?
将棋に存在した9番目の駒
醉象は現代の将棋には見られない駒で、動きとしては後ろを除く7方向に移動できます。さらに、敵陣に入ると「太子」に成ることができ、太子は玉将と同じように8マス移動できます。この太子、盤上にある限り、玉将を取られても負けにならない(=両方取る必要がある)という強力な性質があります。
醉象(太子)は元々中将棋の駒です。中将棋は中世からある将棋の亜種で、16世紀ごろまでは現代の将棋よりも主流であり、12×12の盤面で21種96枚の駒を用います。公家や上級僧侶の間で人気があり、記録が多数残っています。
現代の将棋とは異なり、取った駒を再利用することはできないルール(取り捨て)となっています。戦国時代以降は廃れていき、江戸時代にはほぼ現代の将棋が主流となっていたようです。
この醉象、現代の将棋にも関係があることが「諸象戯図式」という文献に記載されていることが知られています。諸象戯図式は江戸時代、元禄7年(1694年)に刊行された将棋のルールの解説書で、「小象戯」として二種類の図面が載っています。左側は我々が見慣れた現代の将棋、そしてもう一つは玉将の上に「醉象」が加えられた図です。
さらに、左側の図面には興味深い注釈があります。
注釈の中にある「天文(てんぶん)」は後奈良天皇の在位のときの年号で、西暦1532年~1555年までに相当します。ちょうど戦国時代に相当し、織田信長が天文3年、徳川家康が天文11年に生まれています。天文のときに在位していた後奈良天皇は105代天皇になり、非常にお金に苦労したことでも知られています。
それにしても、将棋のルールの成り立ちに帝が関係していた、というのは驚きです。後奈良天皇が命じた日野晴光(ひのはるみつ)は公家で、最終的な官位は正二位・権大納言となっており、いわゆる公卿として朝廷の重要ボジションについていました。亜相(あしょう)とは大臣に次ぐ官の通称で、大納言の位を意味します。日野晴光が大納言に就任したのは天文18年(1549年)と記録が残っていますので、後奈良天皇が命じたのは1549年~1555年の間だったと思われます。
伊勢守平貞孝(たいらのさだたか)は室町幕府の武将で、当時の足利義輝に仕え、政所執事を務め幕府の実権を握っていた重臣です。足利義輝が当時の権力者・三好長慶と対立して京を離れたとき、平貞孝は従わず逆に三好側についた(幕府と距離を置いた)ことが知られています。
日野晴光も平貞孝も当時の朝廷・幕府に使える人物として記録が残っていますが、どういう経緯で後奈良天皇が二人に命じて醉象を取り除き、将棋のルールを変更させたのかはわかっていません。
将棋のルール
そもそも現代の将棋のルールはいつごろできたのでしょうか?現代では将棋のルールは日本将棋連盟の「対局規則」に定められています。
具体的なルールは第2条~第10条にかかれており、盤や駒の動き、終局条件、反則について詳細に定義されています。特に反則については「二歩」「行き所のなき駒の禁」「打歩詰」の他、王手放置や二手指しなどが規定してあります。
これらの将棋のルールのうち、例えば「二歩」ができると先手が必勝になる手順が知られています。また「行き所のなき駒」は中将棋でも禁じられており、合理的なものと考えられています。ただ、「打歩詰」だけは経緯や理由が謎に包まれています。
打歩詰の由来には諸説あります。例えば、広く信じられている俗説としては雑兵である歩で大将を打ち取るのは失礼というものがあります。将棋を合戦に見立てて、格下の歩兵がとどめを刺すのがよくないというマナー論ですね。しかし、戦国時代は下剋上が当たり前であったこと、同じく歩で詰ます「突き歩詰め」が認められていることから、根拠としては弱いです。
別の説は打歩詰がないと先手が必勝となるというものです。これは羽生善治九段が若い頃に唱えていたものです。
また、七冠を達成した際のインタビューでこのように語っています。
将棋の第一人者である羽生九段らしい、将棋の真理についての探究心が窺えます。ただ、現実的に将棋のルールが成立した中世に、打歩詰が勝敗に関わると、将棋の真理について理解していた人がいるかというと、難しそうです。
それ以外では、高度な詰将棋を作るためという説もあります。江戸時代の将棋無双・図巧をはじめ、打歩詰をテーマにした技巧を凝らした芸術的な詰将棋は無数に存在します。ただ、このような高度な詰将棋は打歩詰という特殊なルールがあるから作られるようになった、というのが歴史上の文献を追っていくとよくわかります(Appendix: 「最初の打歩詰」参照)。
このように、「打歩詰」がどのように成立したのか、というのは過去の文献を紐解いても明らかになっておらず、将棋の歴史について書かれた本や論文でも決定的な証拠はありません。現代将棋の成立において、「醉象」と「打歩詰」はともに謎として残っているわけです。
帝はなぜ醉象を除いた?
さて、一度醉象に話を戻しましょう。醉象駒が最初に出土したのは冒頭取り上げた一乗谷朝倉氏遺跡ですが、その後別の場所でも発見されています。興福寺の井戸底からは、天喜6年(1058年)と書かれた木簡とともに、醉象や桂馬、歩兵の木駒が出土しています。先述の通り、醉象は中将棋でも使われますが、桂馬は中将棋では使用されないことから、おそらくこの頃から醉象ありの小将棋は遊ばれていた、とみることができます。
つまり、1058年~1550年ごろまで、約500年の歴史がある小将棋のルールを、後奈良天皇が改変した、ということになります。その理由ははっきりとわかっていませんが、後奈良天皇とその時代背景を読み解くと、推測できる部分がありそうです。
天文年間とは、歴史の中でも特に朝廷が弱い立場にあった時代です。室町幕府から命じられた各地の守護大名は力を失い、代わりに下剋上で力をもった戦国大名が群雄していました。教科書的には、戦国時代は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康から説明されることが多いですが、信長の台頭より少し前は、京を取り巻くのは三好・六角・朝倉・浅井・畠山などの大名でした。特に三好氏は畿内を完全に掌握しており、京は実質的に三好の支配下に置かれていました。
このような情勢の中、幕府足利家の力も弱く、武家の棟梁としての名目はあるものの、実質的に権威を失っていたとされています。また、朝廷も各地の乱世の影響で税収がなく、財政的に極めて困窮していたようです。後奈良天皇も同様に大きな力はなく、宸筆(天皇の直筆)の書を大量に売って収入の足しにしていたと伝わっています。つまり、この時代は天皇も将軍もほとんどお飾りのような状態だったということです。
苦難の時代を過ごした後奈良天皇ですが、実は醉象を取り除く以外にも、将棋との関わりが記録に残っており、実は相当な将棋好きだったとの記述があります。それは三世名人の初代伊藤宗看の詰将棋集「中象戯圖式」の序文にかかれています。
中象戯圖式は名前の通り、現存する数少ない中将棋の詰将棋作品集で、寛文3年(1663年)に刊行されたものです。この序文は林鵞峰(江戸時代の儒学者で、林羅山の子)が書いたものです。その中に以下の記述があります。
このことからすると、後奈良天皇は相当に将棋に入れ込んでいたことがわかります。ではなぜ臣下であり将棋仲間でもある日野晴光と伊勢守平貞孝に命じてまで、醉象を取り除いたのでしょうか?おそらく後奈良天皇は世間で指されていた小将棋に不満があったと想像されます。
小将棋は、現代の将棋に醉象を加えただけですが、そのゲーム性は今と大きく異なります。まず、小将棋は取った駒の再利用ができず、中将棋と同じく「取り捨て」であったと考えられています(再利用できる、という説もあります)。かつて中将棋も強かった大山康晴十五世名人が、一乗谷朝倉氏遺跡の醉象が発見されたときのコメントが残っています。
この取り捨ての小将棋がどのような展開になるかは実際に遊んでみるとよく分かります。結論から言うと、醉象が敵陣に切り込んでいく戦法が非常に強いです。というのも、醉象は敵陣で「太子」となり、玉将と同じになり、相手は太子と玉将を両方取らないと勝てません。そのため、敵陣で太子に成ればほぼ負けがなくなります。また、一度太子ができると、今度は玉将を大事にする必要がなくなるため、一転して玉将を「攻め駒」として活用することになります。
玉将・太子は当然、現実の帝と親王を連想させるものです。戦国の世で、武将や庶民が玉将や太子を雑に扱う遊戯に興じていることは、朝廷の力が弱い時代とはいえ、後奈良天皇としてはなんとかしたいと考えたのでしょう。もしかしたら権力がない自分でも、愛好していた将棋くらいは好きに決めたいという思いがあったのかもしれません。
醉象を除くための戦略
とはいえ、実際に命じられた日野晴光と平貞孝は困ったはずです。500年以上遊ばれている将棋のルールを急に変えるといっても、それを普及させるのは想像するだけで困難だからです。例えば、今の将棋で「明日から銀は横にも動ける」というルールを定めても、それに実際に従う人は少ないでしょう。
ボードゲームのルールというのは、基本的には面白いものが残り、そうでないものは消えていきます。かつて上流階級で好まれていた中将棋も、江戸時代には「中将棋覚えているが相手なし」という川柳ができるほどに指されなくなってしいました。日野晴光と平貞孝らの選択肢としては、「醉象のある小将棋より面白い将棋のルールを考案する」しかなかったはずです。
醉象を除く話は、諸象戯図式以外にも伝わっています。これは十一代大橋宗桂の献上詰将棋集「将棋明玉」の序文に書かれています。
この序文を書いたのは浅川善庵という儒学者で、十一代大橋宗桂と親交があったとされています。先の林家のように、献上詰将棋集には儒学者が序文を書くことが通例となっていたようです。この序文は将棋所が幕府に献上したものですので、当時の将棋の「正史」といってよいかと思います。文中に出てくる「規式(きしき)十四條」というのは後世に伝わっていませんが、おそらく将棋所に伝わっていた将棋のルールではないかと推定されます。
注目すべきは、「而(しか)シテ後、巧(たく)ミ之又(また)巧ミナルモ、亦(また)従前ノ将棋ニ非ズ也」の部分で、規式十四條ができたことによって、それまでの将棋とは異なる戦略の広がりが出たことが明言されています。規式十四條の詳細は不明ですが、おそらく「取った駒の再利用」はこのときに初めて将棋のルールとして明示的に取り入れられたと考えられます。
なぜなら、醉象を取り除くという変更のみで、それまでの将棋とは全く異なるほどのゲーム性の変化が見込めないためです。日野晴光と平貞孝らは、醉象を除く代わりに駒の再利用という画期的なルールを考案し、これを世間に普及させたと想像されます。これに伴い、現代の将棋のルールが整理され、あるいは「帝のお墨付き」の遊戯として戦国の世に広まっていったのかもしれません。
「太子」を除く
ここからはさらに踏み込んだ考察をしていきたいと思います。ここまでの議論をひっくり返すようですが、実際に後奈良天皇は醉象を除くように命じたのか、個人的には少し疑問に思っています。というのも、帝として懸念していたルールは醉象ではなく「太子」であったはずだからです。想像ですが、勅命としては醉象ではなく、小将棋から「太子を除く」ようなものだったのではないでしょうか。
日野晴光と平貞孝は、取った駒の再利用、という画期的なルールを考案しただけでなく、巧妙にも小将棋から醉象だけではなく「太子」を除いたと考えられます。醉象という駒は太子と異なり、後ろに下がることができません。そこで、「醉象」と「後ろのみに動く駒」をセットで取り除くことで、合わせて太子になる、という理屈です。
もちろん、将棋には後ろのみに動く駒というものは存在しませんが、唯一の例外があります。それは敵方の歩兵です。彼らは「醉象」と「敵方の歩兵」を同時に取り除くことで太子を完全に小将棋から排除することを思いつきました。
小将棋の初期配置では、対局の「開始時」に玉将の前に「醉象」が「初期配置」してあります。これと表裏をなす形で対応するのは、対局の「終局時」に玉将の前に「歩兵」を「打つ」こととなるでしょう。もちろん将棋の終局は詰みの局面になり、これは打歩詰のルールそのものになります。
つまり、打歩詰のルールは醉象を除くと同時に作られ、これにより現代の将棋のルールが成立したとする説です。この打歩詰のルールは、「規式十四條」に盛り込まれ、現代までつながっていると考えられます。
打歩詰の成立の経緯が伝わっていない理由はいくつか考えられますが、「帝が太子を排除した」というのは、後世に歴史を語るうえであまり望ましくないので、(おそらく江戸時代の将棋家元によって)由来を明記しなくなったというのがしっくりくる気がします。
まとめ
ここまで将棋のルールがどのように成立したのかを歴史上の文献を紐解くことで状況証拠から考察してきました。
将棋の形式は、1649年~1655年ごろに後奈良天皇の命によって定められた
日野晴光と平貞孝らによって、それまでの小将棋から醉象・太子駒が取り除かれた
同時に「駒の再利用」や「打歩詰」といったルールが作られ、現代の将棋が成立した
もし間違いや追加の情報があれば、ぜひコメント等お寄せいただければ幸いです。
Appendix: 最初の打歩詰
打歩詰のような将棋のルールが初めて成文化されたのは二世名人大橋宗古が寛永13年(1636年)に幕府に献上した「象戯図式」(通称「将棋知実」)という詰将棋作品集の巻末に記載されているものとされています。江戸時代には「将棋所」と呼ばれる幕府に認められた部門があり、名人候補者が自身の詰将棋作品集を献上するのが慣例となっていました。
図面で特別に禁じ手について記載があり、「行き所なき駒の禁」「二歩」「打歩詰」「連続王手の千日手」が説明されています。また、連続王手でない千日手も、当時は仕掛け側が手を変えるという規則があったと書かれています。いずれにせよ、大橋宗古の時代には「打歩詰」は一般的なルールとして認知されていた、とみて間違いありません。
実は成文化されてはいないものの、打歩詰はそれ以前にも記録が残っています。それは大橋宗古の父親、一世名人初代大橋宗桂が後陽成天皇に献上した最古の詰将棋集「象戯造物」の第30番です。
作意はそれほど難しくなく、☗6二角☖8二玉☗7三金☖9二玉☗8三金☖同玉☗8四角成☖同桂☗同歩☖9三玉☗8五桂☖8四玉☗7三銀☖8三玉(第2図)と進みます。
この局面が歴史上最古の打歩詰の局面です。攻方は打開するため、ここで☗8二龍!と龍を捨てます。以下☖同金☗8四歩☖9二玉☗8二銀成☖同玉☗8三金☖8一玉☗7三桂不成までとなります。
余談ですが、初代大橋宗桂はもともと「宗慶」という名前だったのですが、織田信長に桂馬の使い方が上手いと褒められ、以来「宗桂」と名を変えたという話が伝わっています。彼の詰将棋集にもその片鱗が感じられます。
さて、この詰将棋ですが、現代から見たら平凡というか、あまり妙味を感じる部分はありません。打歩詰が真に高度な詰将棋のテーマとなるのは後の三代伊藤宗看、看寿のように、江戸時代中期以降になります。そのため、「打歩詰」が詰将棋のために作られたルールというのは、最初の名人であり将棋家元の始祖である宗桂の作品の水準からすると、疑問が残るというわけです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?