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「お笑い」と「無理」(『歌舞伎町のフランクフルト学派』の感想)

大晦日に駆け足で『歌舞伎町のフランクフルト学派』の配信を観た。『歌舞伎町の〜』は、批評家の伏見瞬さんと西村紗知さんが主催するトークイベントで、その日は「お笑い」批評の特集会だった。

そもそも、「お笑い」は批評に馴染まない。批評的な視点からネタを見ることが芸人側から異常に忌避される、特殊なジャンルだといえる。そんな中で、本質的な部分を突こうとすれば、作品から離れた大衆論にならざるを得ない。

では、「お笑い」を批評対象として俎上に載せるためにはどうしたらよいのか?イベントは、その方法自体を考えるために、前提となる「お笑い」界の土壌や潮流について話し合うような流れだった。

よくある「お笑い批評」を乗り越え、どうすれば批評は成立するのか。そんな危機意識が共有されているように思えて、好感がもてる会だった。



終盤、「お笑い」というものは人工物であり、必ずどこかに「無理」が出るという話があった。「無理」というのは、作り手側から見れば「型」とも言い換えられる。人間という法外な物が、「型」に流し込まれて、「芸」として出来上がるのである。演じる上での「無理」にこそ「芸」は宿る。

だとすれば、「無理」という視点には「芸」の本質を貫く可能性を秘めている。「無理」という言葉は汎用性があっていいな、と気に入った。

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