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それでも、多様性について考えたいだろうか?

商業施設で、小さな子供を一人でトイレに行かせるのはやめましょう、という注意喚起のツイートが回ってきた。とあるモールのトイレ前のベンチに、長時間座り続ける不審者が出たそうだ。従業員はトイレに子供がいないことを確認し、声かけをして撃退したそうだ。法律上は裁くことができないため、ネットに記事をあげたそうだ。

子供を狙った暴力は卑劣だ。自分にもし子供がいれば、絶対に許せないのは当然だ。

けれどもわたしは、一方で、この不審者も可哀想だよなぁということも思う。彼も別に、法に触れることを目的に、待ち伏せをしていたわけではないだろう。普通の性向に生まれていれば、犯罪行為に手を出す必要も無かったのだろう。彼は、彼の中の欲望をどう処理するのが正解だったのだろうか。

13歳以下の幼児・小児を対象とした性愛・性的嗜好は、ペドフィリアと呼ばれる。「ロリータ」の小説をあげるまでもなく、ペドフィリアは世界中に一定数存在する。

我が子を健全に育てたい親にとっては、彼らの欲望は有害だ。そしてそれは、社会にとっても厄介な存在だということを意味する。そのため彼らは、社会の中では犯罪者や精神病患者として扱われる。刑務所や病院といった人目につかない場所へと、排除されることになる。

つまり、ペドフィリアは世界に自然に生まれる存在であるにも関わらず、社会の都合によって排除される。自分の中に小児性愛を持つものは、生まれた時点でハズレを引いたことになる。


いま言われている「多様性」という言葉は、社会にとって無害な存在には、居場所を与えようという運動だ。逆にいえば、有害な存在は多様性に認められず、法や医学によって排除される。そして、社会にとって無害かどうかは、ただただ社会の都合による。その存在が、生き物として自然なものであろうと、社会に有害であれば排除されるのだ。

誤解のないように繰り返すけれど、社会的弱者を狙う暴力は許してはならない。自分に子供がいれば、彼らの被害に遭わないように全力を尽くすだろう。

けれどももう一方で、彼らのような存在にもどうにか居場所が与えられないかということも思ってしまう。生まれつきの性向によって、加害者として排除されていくのは、生まれた瞬間にハズレを引くようなものだ。私は可哀想だと思う。

矛盾したことを言っているけれど、矛盾した欲望をどのように共存させるかということこそ、本来の「多様性」のあり方だ。いま世間一般で言われる多様性は、社会的に無害な人間の選別にすぎない。

多様性を考えるとは、自分の安全を脅かされることだ。それでも、多様性について考えたいだろうか?

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