【解呪】免罪符としての特別

自分の中の呪いを解くための散文。特定の個人に対するメッセージではありません。また、文中のエピソードも最近のものとは限りません。


人間は、名前を与え、その外形を規定することで内にあるものを捉えようとする。というより、そうすることでしか、何かを確固たるものとして感じ、認識することはできないのかもしれない。
「本質」といって、あるものを言葉で描写したとて、二次元のシステムで3次元以上のものの重心を捉えられるわけもなく、結局、どれだけ力を尽くしても、精々その外形の枠が小さくなるだけだ。近似はどこまでいっても近似なのである。そのものには成り得ない。
であれば、考えるべきは、名付けによって枠組みを与えることで、どのような意味や価値を持たせるのか、ということになるだろう。



特別仲の良い友人のことを親友と呼ぶらしい。他の、普通の友人とは違って、彼らには打ち明けないようなことを話し、彼らよりも優先して関係を維持する努力をする。彼らよりも、気にして然るべき存在であると言う。いや、普通は、意識的に特別扱いをせずとも、えてしてそうなるのだとか。
誰かの特別になることは、喜ばしいことであり、万が一にも忌避する対象になり得るかもしれないと、想像することもないのだろう。そういうふうに人生を歩んできたことは、幸せなことだといえるのかもしれない。

私とは、違うな、と、ずっと思っていた。

自分を省みるだけでも、人間は多面的な生き物だ、と感じているし、ある人に対して表出する面は移り変わる。ゆえに、その「人」全体に対する思いを持たないことが、私にとっての普通であった。ある人の、ああいう部分は好ましいな、とか、関わりたいものではないな、とか、その時々に表出する部分的な面に対する評価があるだけなのが、普通。関わりたい面と関わり、関わりたくない面との接触は避ければよくて、それが他者との心地よい距離感だと思っている。

この行動指針を、うまく理解してもらえなかったのだ、と今ならわかる。

お互いの好ましくない部分も受け入れて、それで、お互い様だ、と、納得し合うのが、普通の友人とは違う、親友らしい。



知らね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜よ!!!

見たくないものは見なきゃいい。関わりたくない面とは関わらなくて済むように、距離の取り方を変えればいい。

気に入らないところを指摘して、剰え、自分の望む姿に変えようなどと、変えることができるなどと、なんとも傲慢なことではないか。

お互いに影響を与え合い、より良い人間へと変容していけること自体は、素晴らしいことだと同意する。しかし果たして、あなたの思う「より良い」人間像は、あなたのエゴではないだろうか。そんなこと、考えもしないのか?

相手のことを特別大事に思っているからといって、踏み込んで良い問題ばかりではない。たとえ相手から特別に思われていたとしても、踏み込むべきでない問題がある。

特別であると伝えることで、勝手に顔パスで通過して、茶菓子のひとつも出てこないのかと文句を言うのは、脅しかと思った。当団体では免罪符の発行は行なっておりません。ご了承いただけると幸いです。どうぞ、お引き取りください。



「親友」という名を付けることで、他の友人たちよりも、お互いに踏み込む権利を与え合いたかったらしい。

付与し合う権利の内容以前に、名付けという行為への向き合い方も違ったのだから、初めから、ずっとボタンは掛け違えられていたままだったのだ。

あらかじめ用意した汎用的な名称に、後から何かを当てはめていくことは、別にいけないことではない。それに対峙する自分の行動について判断する手間が省略されるし、エネルギー的にも、時間的にも、コストが低い。コストが低いことは往々にして利点が多い。



ただ、私は「そう」ではなかったし、自分自身の向き合い方を曲げてまで、迎合したいと思えるだけの魅力があなたにはなかった、というだけのことなのだ。私のことを親友だと思っているというあなたに、「あなたは私の親友だ」と明言してあげることはできなかった。私は同じ言葉を返さなかったが、あなたの話を聞くことには応じたのだから、それで満足して欲しかった。むしろ、言われたことに対して好きなようにリアクションする私の権利を尊重する気がないその態度について、謝罪があっても良いのではないかと、思うことさえあったが、これを言わないだけの愛はあったということだ。

果たしてその愛が、私自身に向いてはいなかったか?という問いにはもはや対峙する意味もない。

ひとつ、こんな人間に巻き込まれた(便宜的に受動態の表現を取ったが、私が主体的に巻き込んだと考えているわけではない)ことに関しては、運の悪さを可哀想に思う。



愛がない人間であると非難されることは、受け止めるしかないことだと、今は認識している。ただ、それが礼を失していることかといわれると、反論の余地もあるのではないかと、まだ、信じたいと思っている。諦めが悪くて呆れてしまうな。

だが、いずれにせよ、他者からの評価を覆そうという方向へのエネルギーは大した成果をもたらさないことは確かなので、考えること自体を止めてしまった。



捉えたいことを捉えるために、その都度適した名を与えるし、曖昧なままにしておきたいことには枠組みを与えず置いておく、というのが、現時点での私の行動指針なのである。汎用品に頼らず生きることで得られるものを、少なくとも今の私は楽しんでいるのだ。


それともこれらは、盛大な自己正当化なのであろうか?

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