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舞台「Touching the Void 〜虚空に触れて〜」観劇録
やっはろー!
yuyuです。
今回は、正門良規さん主演の舞台「Touching the Void 〜虚空に触れて〜」の感想についてお話したいと思います。
先日11/17、無事全40公演を駆け抜けられました。大千穐楽おめでとうございました💐
大まかなストーリーの振り返りと、各場面で印象に残った部分の感想などを綴りたいと思います✍︎
正門くんの誕生日(11/28)までになんとか間に合った😮💨💙
ただ1万字overも3度目。長文語り大好きなキモオタだから🫠
主人公のモデルと原作について
「Touching the Void」は、イギリスの登山家、ジョー・シンプソン氏による、雪山での遭難経験をもとにした作品です。
シンプソン氏が1988年に執筆した小説『Touching the Void』(邦題『死のクレバス』)は、ペルーのアンデス山脈にある標高約6,400mのシウラ・グランデ山に挑戦した際の壮絶な遭難事故の記録となっています。シンプソン氏がいかに困難を乗り越えて生還を果たしたかを描いたこの小説は、登山家たちの間だけでなく多くの人々の心に響き、ベストセラーとなりました。2003年には映画化もされ(邦題『運命を分けたザイル』)、同年の英国アカデミー賞で最優秀英国作品賞を受賞しました。
そして2018年にはスコットランドの劇作家・演出家であるデイヴィッド・グレッグ氏の脚色とトム・モリス氏の演出で舞台化。このように海外で高く評価されている作品が今回、「日本初演」として正門くん主演で上演となりました。
あらすじ
私が知りたいのは、あんたらが行った理由。
山の崖なんかに登るようになったそもそもの理由。
それが分からない。なんでなの?
「ジョー(正門良規)が死んだ」と聞かされた姉のセーラ(古川琴音)は、ジョーの死を悼み、サイモン(田中亨)やリチャード(浅利陽介)、彼の登山仲間たちとパブに集っている。
1985年ペルーのアンデス山脈の難関、標高約6,400mのシウラ・グランデ。若きイギリス人登山家のジョーとサイモンのペアは、ほぼ垂直にそびえ立つ西壁の登頂を前人未踏のルートで成功させた。ところが、下山途中で骨折したジョーは氷の崖から落ち、宙吊りになってしまう。ジョーはロープを登ることもできず、サイモンは彼を引き戻すこともできない。このままでは2人とも死んでしまう。快挙を成し遂げた彼らを待ち受けていたのは、大自然との対峙、そしてすさまじい葛藤と苦難だった……。
これだけ読むと「ジョーが死んだ」と書いてあって、実際シンプソン氏は生還したはずなのになぜ!?となりますよね。。
どういうことなのか、次でこの物語の構成を見ていきます。
初見の印象とストーリー構成
東京と京都で各1公演ずつ観に行きましたが、この作品を観るにもエネルギーが要るなと東京の時点でしみじみ感じました。なので多ステしてナンボの作品か?というと、そういう雰囲気ではないと個人的には思いました。
どちらかというと1公演観劇しただけでも充実感や学びを充分得られる作品だと思います。少し分かりにくかった場面があっても、パンフレットの内容を読めば要点が散りばめられているので、東京観劇後の京都までの復習にもうってつけでした。幕間にも少し読みましたが、私が刺さったセリフも出演者の皆さんにとっても同じように印象的なセリフとして語られていました。
☟東京公演後のざっくりとした感想も書いてます(記事後半)
詳しくは後述しますが、確かに実話をもとにした物語ではあるものの、舞台版ではジョーが作り出した夢の世界と回想シーンという2つの世界線があります。夢⇄現実(回想)、そして、生⇄死というように相対する概念の間を行き来しながらストーリーが展開され、観客側も2つの世界線をあちこち移動しながら、シンプソン氏の体験について理解を深めるという構成そのものも新鮮に映りました。
その中で、回想ではあるけれどリアルタイムで時間が進む遭難シーンでもジョーの隣にいるセーラの立ち位置をどう捉えるか、ということもこの作品を味わううえで大事なポイントだと思いました。パンフレットでは、正門くんも古川さんも、幼少期のジョーがセーラにいじめられていたというエピソードを引き合いにしていましたが、(シンプソン氏の回想録には出てくるものの)小説版や映画版にはセーラは出てこないそうです。つまり、夢の世界やジョーの脳内に出てくる人物ってこと。ジョーにとっては“もう1人の自分”という意味合いが大きいのではないかと受け取りました。
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ストーリープレイバック・1幕
ここからシーンを振り返りたいのですが、何せ2回の観劇での記憶と他の方の感想、2018年の海外版舞台の記事を参考に書いたのと、小説も映画もまだ履修していない状態のため、もしかすると細かなシーンの順番や言い回しが微妙に違うかもしれません。曖昧だったところはなるべく確かめながら(最後に参考資料のリンクも貼りました)書くようにしましたが、その点はご容赦ください🙇🏻♀️
ジョーの“追悼会”
遭難事故で帰らぬ人となったジョーを“追悼”するため、登山家御用達のパブにいる姉セーラの語りから始まります。最後に登山に同行したリチャードとサイモンも集まり、ジョーを偲んで献杯します。
しかし、2幕で明かされるのですが、この一連の“追悼会”の流れは実際の出来事ではなく、ジョーが作り出した「夢」の世界線なのです。急にセーラも登山に挑戦したりジョーも出てきたりする訳で、時間軸の移動はともかく(舞台のシナリオとしての)現実的な展開としたら「それはないやろ」的な場面があるのですから。
セーラの第一印象については、とりあえず気が強そうな女だなという感想を抱きました。革ジャン、高めの位置で結んだポニーテール、軟骨ピアス。。そして「クソ」を連呼するなどお口悪め。笑
リチャードと初めて顔を合わせた時には、献杯なのに乾杯と言うとか、「サンドイッチは?」とか、サイモンに対する質問なのに答えようとするなど空気の読めなさげな彼に対して苛立っていました。
セーラが上手側にあるジュークボックスでBGMを流しますが、劇中で流れた曲が幕間でも流れていたことに2度目でやっと気づきました。3曲はSiriで特定できたものの、あとはトイレに並んでいたりメモに必死だったりで逃していたので、他の正門担の方が上げていたレポを参考にしました。やっぱりそのプレイリストで今でも余韻に浸りたくて🥹
各シーンで流れるBGMも、夢の世界の人物の言動やシチュエーションを引き立たせる良い役割を担っていたように思います。
クライミングレクチャー(?)
セーラはサイモンに、あらすじにもある「山に登る理由」を尋ねますが、サイモンはセーラにクライミングを体験させることでその質問に答えようとします。セーラのウイスキーのグラスを奪うとそれを取り返すように彼女が掴んだり、傾けられるテーブルを登るようにしたり…この仕草がクライミングの動作につながっていました。舞台の両袖に埋まったようなイスとテーブルが山の壁に様変わりするので、見た目以上に頑丈なセットの作りに驚きました。
その"レクチャー"的なシーンで、ようやく(?)赤い登山服を着た主役・ジョーが登場します。アイスアックス(氷の壁を登るためのツルハシのような道具)を両手に「hit」「hold」「kick」「push」「呼吸」の一連の動作を繰り返すのですが、そのリズミカルな動きと音響も印象的でした。
シウラ・グランデ遠征計画の回想にもジョーの姿がありました。追悼会と同じパブの椅子とテーブルが使われ、ここでリチャードがテーブルクロスを持ってきます。この行動の意味について東京の時はスルーしていましたが、京都で気づいたのは、あくまでジョーたちが作戦会議をしたリマでのパブに空間を切り替えていたということです。舞台の限られた大道具やセットがある空間のなかでも、違う場面を演出する役割を登場人物に持たせた点が興味深かったです。
リチャードは小説家ですが、ネタ探しのためにジョーとサイモンに同行します。彼は登りには行かないものの、2人のベースキャンプを見守る役割がありました。そして、私たち観客に対しても重要なストーリーテラーという位置づけで、例えば遠征の状況についてステージ全体を登山コースに、ジョーたちをピーナッツに見立てて解説してくれるなど、全編を通して緊張感が漂うなかでも少しの癒し的な存在でした。
回想でのジョーとセーラの会話でも「なぜ登るか」がテーマになっていました。そこでジョーは、「登るのは変じゃない、登らないのが変なんだ。登るのは人間の本能だ」と熱く語ります。
そして、彼は続けてある登山家の悲劇を持ち出してでも、なお自分の生きがいが登山にあるといいます。
―その登山家の名はトニー・クルツ。彼は仲間含め4人でスイスのアイガー北壁に挑みました。メンバーの怪我で登頂を諦めて下山するも、仲間が落石やロープ(ザイル)による事故で次々と命を落とします。最後の一人となったトニーも、ザイルが足りなくなり宙吊りになってしまいました。救助隊が駆けつけるも猛吹雪で近づくことすらできず、結局助からなかった…という残酷な話。シンプソン氏の生還がいかに奇跡的なのかを際立たせるエピソードです。
それを聞いたセーラは「最高!」と嫌味たっぷりに放ちます。この時のセーラの心理を最初は理解するのが難しかったです。サイモンに登る理由を聞いた時も「クライマーはクソ」と暴言を吐いていましたが、命をわざわざ危険に晒す(自殺行為といってもいいくらいの)趣味にハマる愚かな人たちに見えたのでしょうか…?
登頂成功も…2人を襲う悲劇
リマでの作戦会議を経て、前人未到のルートでシウラ・グランデに挑むことを決意したジョーとサイモンは、極限まで装備を削った「アルパインスタイル」で臨みました。アルパインスタイルは少人数、短期間で踏破するための手段ではあるものの、身軽で「美しい」メリット以上に「極めて危険」な方法でした。雪を融かすガスボンベ(OD缶)も計画通りにいくと信じて1つ減らして荷造りしましたが、この判断がのちに仇となります。
山に登る場面をどう舞台で再現するのかというと、表面が網目状でピラミッド型をしたセットが出現して、その網目を手で掴んだり足場にしたりしていました(☟投稿2枚目)。網目には障子紙のようなものが貼られていて、動く度に紙が破れてヒラヒラと雪のように舞っていました❄︎
◤「Touching the Void」開幕前会見◢
— モデルプレス (@modelpress) October 8, 2024
Aぇ! group正門良規、登山家役で“オリンピック級”体作り「日に日にでかくなっている」⛰️
デビュー後初舞台に意気込み「皆さんに体感してもらってやっと届く感動がある」
🔻写真多数https://t.co/IT1TkAis9E#TouchingTheVoid #Aぇǃgroup #正門良規 #正門くん pic.twitter.com/lMDYzRLWcc
登頂に成功し、誰も見たことがなかった景色を目の当たりにして生きる実感を得る2人。ジョーはもし自分が登山にハマってなかったら薬物などの別の中毒者になってたかもと言うくらいですから、それだけ中毒的な何かがあるのかもしれません。私もアイドルのオタクじゃなかったら、その分二次元やファッション、グルメ、乗り物など他のオタクになっていたかもしれませんし(☜そういうことじゃない)。
…登頂までは順調そうに見えましたが、下山となると話が変わります。
リチャードの解説にもありましたが、登山事故の8割は下山中に起きているそうです。下山中の事故が比較的多いことはなんとなく小耳に挟んだことはありますが、先程のトニー・クルツのエピソードも確かに下山中の出来事でしたし、改めて登山の過酷さを裏付けるデータです。
やがて食料、飲み水が尽き、天候も悪化していきます。夜に動くのは危険なので緊急でビバーク(要は野宿)する必要が生じ、計画が狂いだしました。ガスボンベも持って行った分が尽きそうで、早く動かないといけなくなりました。だから4個要るだろうという想定を舐めて1個減らした判断が命取りなんだと…。
そこで悲劇が起きます。ジョーが右脚を骨折したのです。そのときのジョーの痛がる様子が生々しく、私も目と耳を覆いたくなるほどの苦しさが伝わってきました。サイモンは1本のザイルで自分とジョーの体を繋ぎ、お互いを支えようとします。
するとさらなる悲劇が、、氷の割れ目の深い「クレバス」にジョーが落ちてしまうのです。骨折してしまったので登ることも困難です。
そこから動けず、宙吊りの状態が1時間以上続きます。
ジョーの3回引くという合図がなく、生存確認ができません。凍傷も酷くなるなか、このままでは2人とも死んでしまいます。サイモンは苦渋の決断に迫られ、せめて自分だけは助かるべくロープを切ることにしました。
この自分の決断で「ジョーは死んだ」と。サイモンがそう思うのも無理はありませんでした。
しかし、それでもセーラはジョーの死を認めようとしません。
これについては古川さんがパンフレットで話している通りで、弟の死を受け入れられないというよりも、どちらかというと幼少期に弟をいじめてたからこその「自分が鍛えてやった」「そんなひ弱な男に育てた覚えはない」といった心理からくるものだと解釈できそうです。ジョーの死を認めてしまうと自分のアイデンティティの否定につながるように感じたのかもしれません。
ジョーの悲痛な叫び声が響く中、1幕が終わります。
ストーリープレイバック・2幕
クレバスに取り残される孤独なジョー
クレバスに落ちた孤独なジョーの世界。ここから、セーラがジョーの頭の中にいるテイで物語が展開していきます。
セーラはもう1人のジョーとして、命が消えかかりそうになった時こそ厳しく接する人格です。ピンチが訪れる度にジョーの奥底から湧く「無理」「このまま死ぬしかない」という思考を蹴飛ばすようにも見えました。
この場面のジョーとセーラが最高にかっこいいんですよね。常人ならただ死を受け入れるしかないような状況に置かれてもなお「いつだって選択肢はある」とする言葉が刺さりました。しかもありがちな根性論でもなさげで、極限の環境の中でいかにベストの選択をするか、という戦略のようにも描かれてる感じがしました。
骨折して登るのは無理だから上には行けない。そこで、下に降りていってクレバスのどん底を目指すという、ある意味逆転の発想です。そして寝る時に敷くマット(カリマット)とアイスアックスで簡易的な添え木を作る咄嗟のアイデアも目からウロコでした。
一方、ジョーが右脚の添え木を作っている間に、夢の世界ではサイモンが下手側でジョーの服を燃やしていました。サイモンがどういう意図で彼の“遺品”やテントを処分しようとしてるのかと、2回目の観劇ではそこにも思いを馳せてたりもして。あの時ザイルを切ったことでジョーを殺したも同然(そしてセーラもそれを追及する)という罪悪感もあったのかなとか、ジョーを忘れたい訳じゃないとは思うけど、供養する意味があったのかなとか。。
ジョーは痛む右脚を引きずりながらもお尻で移動を続けていきます。進んでいくと、氷の割れ目から光が差し込むのが見えました。つまりクレバスのどん底に辿り着いたのです。
雪が溶けて水たまりができているのを見つけ、3日以上何も飲み食いしてなかったところでやっと水を得ることができました。緊張感しかなかったこれまでの展開からのオアシスともいえるこのシーン、観ている私のほうが自然と安堵の涙が溢れました。
ところが、生き返ったのも束の間、今度は爆弾通りと呼ばれるゴツイ岩が6kmも続くゾーンが立ちはだかる急展開。
骨折した右脚をセーラが叩き、その度に痛がるジョーの姿も見ていて苦しかったです。
そんなスパルタ指導(?)の中でも、目標とする岩を決めてその形の特徴に合わせてニックネームをつけ、他のことは考えずにその岩までの距離をひたすら進むという策で乗り切ろうとしました。岩のニックネームのレパートリーは「死にかけの象」から「ミック・ジャガー」まで色々あったものの、「ただの岩」と名前が思いつかない時もありました。ただ、それは単なるネタ切れではなく、精神的にも肉体的にも結構キてたことを意味するのかなと、後で振り返りながらハッとしました。
そんなドSなセーラですが、「お前は筋肉質なんだから〜」「上腕二頭筋が〜」などのセリフが、今の逞しくなっている正門くんを形容しているように聞こえました。自担贔屓ながら褒めてくれてるようで勝手に嬉しくなったといったら変ですが、劇中のセリフに相応しくなるようにと筋トレも頑張っていた正門くんの俳優魂に惚れた瞬間でした。
舞台『Touching the Void』初日開幕🎊
— ORICON NEWS(オリコンニュース) (@oricon) October 8, 2024
Aぇ! group正門良規、役作りでジム通い
浅利陽介も驚き「どんどんデカくなった」https://t.co/Scc0B7wonc#Aぇǃgroup #正門良規#TouchingTheVoid pic.twitter.com/FckZLd0ddk
爆弾通りを切り抜けたものの、いい加減疲れ果てたジョー。寝袋を取り出して休もうとしますがセーラがそれを許しません。
セーラが強引にかけたジュークボックスのBGMはボニーMの「Brown Girl in the Ring」。ジョーはこの曲が嫌いなようですが、レコードが擦れたようにだんだん音源が壊れて狂っていく感じは、ジョーの意識が“ここではないどこか”に行ってしまう様子と重なります。
「イッヒ・カント・ニヒト・メア」―。
トニー・クルツが遺した「これが限界だ」の言葉が漏れ、体力も精神力も文字通り限界を迎えようとします。
自分の追悼会という夢
ジョーの追悼会の夢の中。リチャードが「May You Never」(ジョン・マーティン)を弾き語りで歌おうとするのをセーラが止めます。
そこに、自分を追悼する世界にもかかわらずジョーが現れます。さっきまでとは違い、骨折もしていないので普通に歩いています。ただ、現実世界で寝袋に籠ったジョーは確かそのまま上手側に残置されたままでした(さっき寝袋の中にいたはずなのに数秒の暗転で着替えて夢の世界でまた出てくる…のもイリュージョンでした)。
その時の彼は、なんとも言えない安らぎを感じているような表情をしていました。正門くんの顔の造りが良いのは言わずもがなですが、他の媒体では見せないような、別次元の美しさがありました。“別次元”と私が感じたのも、この場面自体が臨死体験として描かれているからかもしれません。
1幕ではセーラが読もうとしなかったジョーの手紙。これを読んでしまうと彼女自身のなかでもジョーが死んだことになってしまう。それでも、セーラは彼の“生前”の思いを知ることになります。
「死んでごめん」「幸せだった」という言葉が特に記憶に残り、心を揺さぶられました。
誰も見たことのなかった景色を求め、憧れのシウラ・グランデに挑めて、そこで死ねるなら本望だということでしょうか。姉さんに心配も迷惑もかけた自覚はありつつも、自分はそういう人生で良かったと、後悔ないように生きたと。
下品なので詳細は割愛しますが笑、「世界一美しいトイレ」のエピソードも、正門くんの口から聞いた訳ではないもののアイドルのイメージでいるとなかなか衝撃的なくだりではありました。アイドルのイメージでこの舞台を観るのも彼に対して失礼なのかもしれませんが、(喫煙シーンもないなど)そのイメージを大幅に損ないそうな表現が彼本人の動作にはあまりなかったので少し安心していた自分も実はいました。。にしてもこの話が結構強烈で、他にももっと感動的な言葉が並んでいたはずなのに思い出せません。泣
セーラは、手紙を真っ二つに破いてしまいます。
ジョーのSOSは届くのか…!?
真夜中の雪山にシーンは戻り、ジョーはなんとかサイモンらのテントの近くまで来ました。
ジョーが助けを求める声を振り絞ります。テントの中にいるリチャードはその声を察知し「うめき声が聞こえる」とサイモンに話していたものの、彼は「風の音がうるさくて…」「幽霊みたいな声に聞こえるのはよくあること」と、どうせ幻聴だろうと取り合わずにいました。
しかし、最終的にはサイモンがテントから出て、猛吹雪の中でその声を聴こうとしたのです。このとき、第六感が働いたのかなと私は思いました。
ジョーの夢の中の場面ではお互いのことを「ただの登山のためのパートナー」と思っていそうな発言もありましたが、仲間の危機を察知する不思議な絆があったおかげか、助けを求めるジョーの声に気づけたのかもしれません。
と思うと最後の「生きてる…!」というのも見方が変わってくるような気がしました。サイモンがジョーを無事見つけて再会できたこと、そしてジョーの生命力の強さだけでは説明しきれない、何よりも助かるための最大限の努力を振り絞ったことが、死の淵から生還を果たした実話の“奇跡性”を裏付けるように思えました。
総評
奇跡の実話から受け取った私なりの解釈
生還する結末は分かっていてもなお、どんな状況でも「生きる」ことを諦めないジョーの姿を見ていると涙がこぼれました。生命体として存続させる意味での「生きる」と、人間らしく自分の存在意義を追求する意味での「生きる」という2つがいかに大切なのかということを改めて考えさせられました。
劇中でも触れられた、かの有名なジョージ・マロリーの名言「そこに山があるから」になぞらえて、セーラがジョーに「そこに命があるから」と命の尊さを説いていたところも印象的でした。具体的なセリフは覚えていませんが、呼吸するとか何かを食べるとか日常の1シーンや些細な行動を挙げていたのが、何も壮大な夢を持ってそれを叶えることだけに生きる意義があるわけじゃない、むしろ命を大切に普遍的でも1日1日を生きることが大事なんだというふうに感じ、そこでも私は目頭が熱くなりました。メンタルの不調を感じていた時には、ネガティブに捉えていた自分の存在も肯定してくれてる言葉のように響きました。
ただ、これも一種の生存者バイアスというか、モデルのシンプソン氏自身が生還できたからこそ、私たちもこうやって知ったり学んだりできると。亡くなっていった登山家たちは「生きて帰るまでが成功だったはずなのに」と悔しさでいっぱいだったのか、それとも「自分の理想の生き方ができたからここで死ねるなら本望だ」と思っていたのか…。ジョーがトニー・クルツの話をした時はその死を美化していたように映りましたが、実際は彼の死に自分を重ねることはできず、脳内のセーラの「生きろ」の声が上回ったことも、ジョーの「生」への執念を象徴していたのかなとも考えられました。
「tick, tick…BOOM!」の感想でも度々こぼしていますが、私自身が仕事面で不安を抱えて自信を失っている状況で、生きづらさすら覚えることもあります。セーラみたいに背中を押してくれる羅針盤のような存在が私にもいたらもう少し頑張れるのかなと思いつつも、(ジョーのような生命の危機的状況ではないけど)置かれた環境で最大限できることに努めることが大切だという学びもありました。
正門くんを通じて出会えたこの作品
正門くんの主演舞台が決まるも「雪山での遭難の物語」と聞いて、私の興味関心からするとなかなか縁遠いテーマだな…と最初は正直感じていました。しかし、正門くんきっかけとはいえ、この作品に出会えたことも何かの縁というか、今の私に必要かつ大切なことを教えてくれた気がしています。
「日本初演」の響きも好きで笑、ましてやそこに自担が選ばれると誇りに思う気持ちが増します。
海外では有名で評価されている作品でも日本人にはまだ知られていない作品がまだたくさんあるだろうし、観劇マニアの方ならともかく、普通の日本人が海外の舞台作品に触れる機会ってきっと少ないと思うんです。「Touching the Void」も世界にたくさんある素敵な作品のひとつではありますが、彼が主演じゃなかったら自分では選ばなかったであろうテイストなだけに、引き合わせてくれた正門くんへの感謝の気持ちも勝手ながら感じています。
日本語版のジョーが正門くんで体現されたことで、(日本の中だけとはいえ)その人物像を一番にかたちづくるという意味でも「日本初演」ってやっぱりデカいと思います。。
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あとそもそも論、正門くんって声が良いですよね♡ 野太く男らしい声は、なぜ山に登るかという理由を語る説得力をもたらしているように響きました。
極寒の雪山でも静かに情熱を燃やす役が似合っているし、2幕以降の今にも命が消えかかりそうな時とのギャップもあって、そんな表現者としての姿にズンとくるものがあります。
私が正門くんに興味を持ち始めた時から彼のことは真面目な人という印象のままでしたし、“一本気”なところはジョーにも通ずる部分だと思いました。自担や自軍抜きで観に行った舞台でも、むしろハズレ役と思ってしまった役者さんに出会ったことは一度もないんですが笑、(正門くんのための役とまでは言いませんが)ジョーももれなくハマり役だと思いますし、正門くんのジョーでこの作品を観ることができて嬉しかったです。
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以上、この舞台をもって2024年の私的J界隈現場の締めくくりとなりました❕(JUMPの冬ドーム参戦するの年明けなんだよね。。)
また次は現場まとめ以外のテイストで色々書きたいです✍︎
ネタはまだあると思う🙂↕️
👋🏻💨💨
参考
☟ジョー・シンプソン氏の半生を学ぶ
☟海外版舞台のレポ
☟ジョーが落ちたクレバスの怖さを知る
☟トニー・クルツについてもう少し知りたい方へ