普通の日常が脛骨高原骨折で飛んだ話
あの日のことはずっと忘れないだろうし、少なくともこの四半世紀こえた私の人生の中で最も長い1日、というか、半日だった。
初めてのnoteで、書くしかないと思った。本当は、足が不自由なことで感じる日々のことを書こうと決心してnoteに登録したはずなのに、順を追って書かないとなんだか気持ち悪いと思ってしまったのは私の悪い癖なのかもしれない。
けれど、もしこれを読む誰かがいるのなら、さらりとでもいいから、一瞬で人間の“普通の”生活はなくなるのかって、日々を省みてくれるなら、私は嬉しい。怪我する前の私に、当たり前のくだらない日常を大切に、たまには親孝行で掃除でもしなさい、寒いけど散歩行きなさいよ、なんて言うことはできないから。
2月、とある日曜日の昼下がり、友達と初めてのボルダリングに行って、それで落っこちた。客観的に書くと、それだけ。
運が悪かったのか、体質だったのかはわからない。けれどふかふかなマットに右足から着地した瞬間、私の身体にボキリと響いて、「あーやってしまった、骨折は本当に折れる音がするんだ」と思った記憶がある。そして激痛、まったく動けない。寝返りさえ。救急車を呼んでもらった。
病院への道中。結構救急車が揺れて乗り心地悪かったこと、揺れる度に激痛でうめいたこと、喉が乾いてたことを覚えてる。その日、甘いパンケーキとコーヒーをランチにしてたの。たまには甘いものでも良いかな、晩ごはんにちゃんとお肉食べれば良いか、って。それでちょっと喉が乾いて、このコース登ったらお水買いに行こうって、そう思ってたのに、買いに行けなかったから。その日のパンケーキは、健康な私の最後の晩餐だった。画像、美味しそうでしょ。レモンパンケーキでした。
病院の検査はまあ地獄だった。自動ドアの段差で足が動いて呻くような、少しでも足を動かしたら泣き叫ぶくらいの人間が、検査台に乗せたり降ろしたり、角度固定してCT撮ったりなんてされたら、もう拷問そのもの。目を瞑ってひたすら泣き耐えるしかなかった。なんで意識あるんだろうって思った。普通こんなに痛かったら意識失ってもいいじゃん、って。
結果、脛骨高原骨折、脛の骨のてっぺんが、ざっくり3分割されていた。1cm以上ずれてて、手術しかなくて、2か月は体重かけれませんと言われた。立派な大怪我である。けれど当時の私は気が動転してたのか、泣きすぎで視力がなかったのか、レントゲンを見せられてもどこが折れているのか全然わからなかった。実家に帰って入院手術をした方が、家族のサポートがあって良いでしょうと言われて家族に電話をかけたものの、何故かタイミング悪くみんな出掛けていた。介護ベッドの上でずっと泣いていた。
まあ、その後連絡ついて、車で迎えに来てもらうことになった。松葉杖で帰るしかない。と、ニーブレイスという白い大きいやつで膝が曲がらないよう固定して(曲がらなければ、体重とかの力がかからなければ、泣かない程度のただの激痛で済む)、無理矢理松葉杖で立たされ、起立性低血圧で真っ青になったりした。
帰りの車も大変だった。とりあえず処方された鎮痛剤を飲んだけれども、足が30°くらい曲がった状態で固定されると、人間の下半身は本当に邪魔になる。後部座席に無理矢理斜めにして入ったものの、曲がったりブレーキ踏んだりで足が動いて、爪先がドアやシートにぶつかるだけで痛すぎて吐き気さえしていた気がする。車線変更も身体が踏ん張ろうとしてしまって痛かった。1日3回の鎮痛剤が、3時間か4時間に1回になった。折れている骨がはっきりわかる、鈍いながらも主張の強い痛みが安静にしていても続いた。
21時くらいだったか、なんとか実家についたものの、実家は階段だからと日本家屋平屋の祖母宅にいった。激痛で食欲がまったくなかった。ものを食べるということさえ思い付かず、家族に言われて初めて晩ごはんを食べてないと気付いた。
古い祖母宅は寒くて、寒いけれども骨折部位が暖まるとズキズキとより痛くて、掛け布団と自分の身体の重さだけでまた足が動いて激痛になる私は、横にもなれなくて、ベッドに腰かけたまま羽毛布団を肩まで引き上げて、ダウンジャケットを着てじっとしていた。確か整形外科の先生が翌朝じゃないといないと病院から言われて、夜明けまで耐えなければならなかった。結局寒さと変な体勢とで身体の他の部位まで痛くなって、無理矢理横になって少し眠った。布団をかけられない右足がとても寒かった。
翌朝行った病院で、靭帯も機能していないことがわかった。切れたのではなく、靭帯が骨から外れてしまっていた。靭帯は強かったから切れなかったけど、かわりに骨がぺりっと剥がれてしまったようだ。立派な骨折がさらに増えた。膝の専門家じゃないと無理と言われて、また翌日別の遠い病院に行くことになった。続く激痛で車に乗れなくなり、ほとんど会話もできないくらいぐったりとした私は、車椅子ごと運んでくれるタクシーサービスを家族が見つけてくれて、それでさらに大きな病院にいった。
そこで無事手術して、プレート1枚、ボルト5本が入った。そしてリハビリが始まって、それから私の本当につらい日々が、始まった。
2020/11/22 追記
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