小学1年生で同級生を買収する。

小1の私は偏食だった。
学校の給食で食べられるものはご飯、パン、牛乳、汁物、そしてデザートはプリンのみ食べられた。(ゼリーは未だに好んでは食べない。)

当時の担任の先生は、残して良いおかずは1種類のみと言った。
しかも必ずそれも半分は食べなければいけなかった。

私は主菜と副菜が食べられないものが出てきたときは困った。
そこで私は多くのクラスメイトが食器を片付けるときに紛れて残飯入れに主菜も副菜も入れるという荒業を生み出した。
当時は小学1年生なので、ルールを堂々と破っている人間がいることすら認知されなかった。
しかし、めざとい奴もいる。
私は先生に言いそうなクラスメイトをいわゆる買収していた。
「私のデザートをあげるから、このことは絶対に言わないでね」
「次に好きなものが出てきたらあげるから、先生に言わないでね」
そんな風にクラスメイトたちを口止めしていた。

とにかく当時の私は好き嫌いが多かった。
嫌いなものを無理やり食べるという発想は一切浮かばなかった。
ちなみに先生からは優等生、同級生からはずるい、怖い、そんな印象だった。

今考えると家庭環境に原因があると思う。
父親の定めた「ルール」、その中に朝食と晩御飯は家族全員で食べるという「ルール」が存在した。
父は、厳格な性格をしていたために食事のマナーに厳しかった。
箸の持ち方、姿勢、取り分け方など、その全てが完璧でないといけなかった。
私の姉はそこでよく躓いた。
姉の箸の持ち方は間違えていた。
毎回の食事のとき、姉が何か食べ物をこぼすと父は怒鳴り散らした。
ときどき姉の手を引っ張り叩いた。
それ以外は母親も私も無言だった。
食事の時間、それは私たちにとって恐怖の時間でしかなかったのだ。

父は覚えているだろうか。
私たち家族の食卓に笑顔や団欒が無かったことを。
私にとって家族との食事は恐怖の時間=食事自体が早く終わってほしいものだった。

それがなぜ好き嫌いに繋がるかというと、母もきっとその時間が嫌だったのだと思う、私やお姉ちゃんが食べやすい、同じようなものばかり作っていた。
私とお姉ちゃんが嫌いで残したりなんてことがあれば父親が激怒するに違いない、そう思ってせめてもの抵抗として、私とお姉ちゃんの嫌いなものは食卓に出さなかったのだ。

これは愛なのか?
モラハラ夫に耐える古き良き日本の妻なのか?
それとも共依存か。

答えは全部。
間違えた愛、耐え忍ぶのが美徳という思い込み、無自覚の共依存。

今思い出して、書いていても歪んでいる。
そして鮮明に思い出せる。
父親の怒号と、楽しくない食卓と、変なルールがある家と、常に緊張感が漂う家庭。

私は、私たちは生き延びてきた。
機能不全家族を。
アダルトチルドレンを。

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