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松尾芭蕉が俳諧で生きるまで

 芭蕉は、具体的にどれくらいのペースで旅をしたのか。どうやって最低限の食事をしたか。どの程度の作品を残したか。何を達成したかったのか。37歳までの芭蕉の人生を整理すると、その頃はまだ旅をしていないようである。

 芭蕉の若い頃の詳細は分かっていない点が多いが、中流階級の家庭で育った芭蕉は13歳で父を亡くしたようである。また17、8歳で北村季吟という俳諧の師について学んだと考えられている。

 19歳頃、藤堂新七郎家の跡取り息子良忠に仕えるようになる。きっかけはおそらく二人が俳諧に関心があったことにあると考えられる。ところが23歳のとき良忠が亡くなり、俳諧での繋がりがなくなったため、芭蕉は藤堂新七郎家を退任する。

 その後の長い間、兄の家に失業の状態で居候する。長い間無職のため、悩み苦しんでいたこともあるだろう。

 兄の家を出たのは29歳の時、江戸で俳諧宗匠になるという目的を持って相当な用意をして出発した。この数年の間に古典を身につけていたのだろうか。そして江戸で『貝おほひ』という原稿を自費出版し、上野の天満宮に奉納している。

 この頃の芭蕉の生活は、家族と、俳諧を通しての友人が支えたようである。職を離れて古典を学びながらも、自費出版するほどの作品を作っている。

 そしてこの後、早くも芭蕉は江戸で頭角をあらわす。

参考文献
・井本農一『芭蕉入門』講談社学術文庫、2001年。31-39頁。

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