《Tattoo》を。:ダスティン・チョン『ブルー・バイユー』
映画(あるいは他ジャンルの作品も)は”救済”はしない。その点で、『BLUE BA YOU(ブルーバイユー )』は誠実である。移民は、あくまで移動の途上にいる。”<家>もないんだ”。本作はその現実感を”フィクション”の中で描写しようと試みる。
通常、フィクションではほんのわずかな間だけ、彼らに対して、何者も襲ってこない時間を担保した空間を用意することができる。情緒や心象風景を描写する美しい色彩による映像美。この映画の中では、”フィクションの力”と”この現実”は常に天秤にかけられている。
この映画の中で、”いわゆる多様性”は私たちがイメージする理想郷的イメージからは乖離している。劣悪な環境の中かろうじて担保されているのだ。彼らはその中で《移民》《難民》というイメージをまとい、そして”自ら”, Tatooを入れている。本作でTattoo が果たす役割は決して少なくない。それは、彼らにとって限られた自由の証拠であり、”彼女”も自らの最期の前に”ユリ”のTatooを手首に入れる。
彼の《家族》のことをどう語ればいいだろうか。Tatooの”代わりに”、髪を黒く染めた白人少女とその母親だろうか。国外追放を彼に強いる《文書》をどう書けばいいだろうか。
私は今、この映画体験について書いている。”この映画”と”鑑賞者”という意味で、私たちは”二人称”の関係性の中にいる。せめてそう書いてあげることはできないだろうか。本作の中で彼(主人公)を演じるのはダスティン・チョン監督本人である。本作の中で、彼は自ら打たれ、自ら逃亡し、自ら愛し、そして自らその愛を引き裂かれる立場にいる。私はその”あなた”を克明にこの眼に焼き付け、描写しようと試みている。
良い作品は、幾度となく見返したくなる。しかし同じくいい作品でも”この映画を観るのは、一度に留めておこう”と思わせるものもある。そんなことを思わせる1.5次情報ともいうべき残酷さが”ドキュメンタリー”という言葉が換気するイメージのひとつ言える。本”フィクション”は、作品を最後回収するための幕としてそのイメージをもってくるのである。
私は普段、写真を勉強中の身である。まだそんなに投稿していないが、このレビューは物語の要素や意味の世界、ひいてはその作家本人からも離れて、ただ目の前にある表層的イメージに徹底的に寄り添う。そういった経験を描写し、観察する姿勢を養成するために始めたのである。批評でもレビューでもなく、眼前のイメージとそれに伴う身体感覚の”描写”である。できるだけ思弁的な領域に話をもっていかないようにしている。それでも今回は物語に完全に呑まれてしまったのだ。その手前同じ紙の上に、客観的に観察しようというスタンスで浮かんだ言葉を置くことができなかったのである。それに関してはまた別の機会に紙幅を設けることができればなと。
”《救済の産声》がスクリーンの外からも聞こえればいいのに”と。
”行かないで、本当に”。