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その火のまえに

ナラティブが足りないようだ

自分の身体よりも巨大な
火をお前は見たことがあるか
神社で 河原で 住宅街で
記憶を掘り起こす
という比喩の
この物量感は何か
大きくて重たい
感じがして好きだ

夜のサイレンが
段段とうるさくなって
その火のまえに
何台もの赤い車
弥次馬 弥次馬 弥次馬
お前は無視してぶんぶん歩く
それでも目の端の空は
充分に赤かった
血潮のように
それ以上に憶えているのは
曲がった露路の閑けさと
公園の暗さ 夜気の冷たさ
お前にはそれらのほうが
何倍も刺戟的だったから

その公園で唯一
脳裡に浮かんだものは
三島由紀夫の金閣寺の
新潮文庫版の表紙の
速水御舟の炎舞のイメージで
それもまた表象に過ぎず
連想の貧しさに
愕然とする

住宅街に現われた
巨大な火の塊りは
魚のように畝り
滝のように立ち昇った

目の表面が熱かった

自転車でもあればよかったのだが
お前は歩くことしかできず
それは深夜だったがお前は
なぜ出歩いていたのかも
ついに思い出せずにいるようだ

思い出せないのはそれが
思い出さなくていい現実だから

喰われたのは知らない人間だった

ナラティブはまだ足りないようだ





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