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#保坂和志

庭、あるいは保坂和志論②

二〇二二年四月二十九日(金・祝) すごく雨  もう長いこと、日記を書けてなかった。ひさしぶりにこの青いノートを開いてみると最後のページは、今日と同じ四月二十九日の日記だった。ちょうど一年前の。すごく忙しかったわけでも日記を書くのが嫌になったわけでもなかった。でもいつのまにか中断してしまっていた日記を再開するには何か理由のようなものが必要な気がして、今日は一日じゅう強い雨がずっと降っていて、たぶんこの一年間で私はさびしいという気持ちを一度も抱いたことがなかったんだ。それはとて

庭、あるいは保坂和志論①

 午前中、夏子は青空文庫で寺田寅彦の「庭の追憶」という短い随筆を読んで、自分の実家の小さな庭のことを思い出していた。高知にある夏子の実家の庭には一本の花梨の木が生えていた。秋になると黄色くてゴツゴツした花梨の実が枝の先にぶら下がったり芝生の上に転がったりしていて手に取って鼻を近づけてみると独特の甘い匂いがした。蜂蜜に漬けて食べたりすることもあるとあとで知ったけど、当時はあんまり食べものとは思ってなくて玄関のところに置物みたいに飾ったりしていて実際食べたこともたぶんなかった。当

永遠、あるいは保坂和志論

 あれは春の、花粉の季節だった 「へっ、しゅん。」  表参道はよく晴れていた。山陽堂書店の壁画の前を過ぎて、 「ティッシュ持ってる?」  と、遠くに見える信号機が赤から青に変わった。右を向くと、 「あ、三回目だ。」  と夏子は急に立ち止まって言った。 「ん、なにが?」  と私が訊くと、 「いま、隣りにゆうきがいてこの道を歩いていて、ゆうきがくしゃみをして、ティッシュ持ってる?って私が言われてる、この出来事というか声も含めた景色の全体が。」  と夏子は答えたが、私はその道を夏

宛名、あるいは保坂和志論

 感情は、感情には宛名がある。ふだんは自分自身や特定の他者に向けられていることの多い感情というものが、ふとした一点から急に拡散して、その宛名が曖昧に広がって遠くへいくとき、そこに感動がうまれるんじゃないかと私はいま思いついた。  先週、大学時代にいろいろ仲良くしていた夏子がとてもひさしぶりに電話をかけてきたので私はたいへん驚いた。最近、短歌を詠むことをはじめた、と夏子は急に言って、ちゃんと作れたのはまだ一首しかないんだけど、短歌を一首作ったからって読んで感想をくれるような知り

準備、あるいは保坂和志論

 私は保坂和志の小説を読んでいるとそういえば何か書きたくなる。私はある時期にある作家の小説を一気にまとめて読むのが癖なので三年くらい前に七冊くらい続けて読んだ保坂和志の小説を、ひさしぶりに読み返してみようと思って今日読んでいた。こういう言い方があるのか私は知らないけれど、執筆誘発性が高い、というのは小説に対する褒め言葉としてかなり上等な評言ではないか。  つまり小説を書きたくなる小説はいい小説である。ただそれはたしかに、「よいものに憧れて自分も書く」や「よいものが与えてくれた