僕のバックグラウンドについて
最初に。
初めて、noteを書いてみようと思う。
僕のnoteは日々の思ったこと、感じたことの記録になっていくことだろう。
今回は僕のバックグラウンドについて。
誰にも明かしていない僕の過去はnoteにだけ。
まず、簡単に僕について。
横山桂大、よこやまけいた。20歳。2001年生まれ。三重県津市出身。小中高とサッカー部。好きなものは珈琲と音楽と読書と古着。社会人サッカーを続けている。性格は誠実で責任感が強いらしい。HSS型HSPらしい。どうやら聴覚と視覚が過敏らしい。
僕の生まれた家について。
父親は消防士。母親は看護師の家に生まれた。3人兄弟の一番下。
祖父母の家の隣に住んでいて、祖父母は魚屋を営んでいる。
生まれた時から、母親っ子。ずっと、母親といた気がする。
母親がいないと何もできない子だった。
父親と過ごす時間は、「恐怖心」がそこにはあった。
小学校の時は、母親の卵を焼く匂いで目覚め1日がスタート。
学校に登校して、やんちゃして、ドロドロになって日が沈む。
帰ったら祖母が作ってくれた「世界で一番美味しい晩御飯」を食べて寝る。
そんな生活が長く、ずっと続くと思っていた。
「クリスマス」そんなものは僕には必要ないんだ。
僕はクリスマスが大好きだった。
母親が僕のために毎年プレゼントを買ってくれた。
僕の全てを把握した母親のプレゼントをもらうクリスマスが大好きだった。
あれは確か、10歳のクリスマスイブ。
10歳。小学4年生。サンタさんはいないと知った年。
サンタさんはいないと知った時、サンタの正体は母親だと推測した。
クリスマスが近づくと、両親がいない間に、家の中。タンスの底。部屋の隅。押し入れの中。至る所にプレゼントがないか探した。
でも、見つからなかった。
「これは、まだ買ってきていないんだな。」と思い、
あからさまに「アレ欲しいなぁ」と母親の前でアピールした。
あからさま過ぎたけど、欲しいものが手に入らなくっちゃね。
そして迎えた、クリスマスイブ。
日が沈んだ頃、母親が駐車場の車のエンジンをつけた。黒煙が立ち上る。
「プレゼントを買いに行くんだな〜バレてますよ!」と、心の中で。
祖母が作った晩御飯をいつも通り食べ、期待を膨らませ、寝ようと試みた。
しかし、プレゼントが楽しみで寝付けない。
時計を確認する。22時を回っている。母親はまだ帰ってこない。
きっと、僕のプレゼントを探し回っているんだ。
なんか申し訳ないなぁ。そう思っていた。
その後、母親は家に帰らなかった。
初めて聞いたその言葉の意味は?
母親はたまに家に帰ってきた。普通の装いで。
「ちょっと家の外で星を眺めながら寝たい時だってあるよね。でもクリスマスイブは良くないよ。」と心の中で呟いた。
母親が帰ってこない日が長く続いた。
そうすると、父親と三兄弟が集合した。
滅多に集合することのない、仲の悪い兄弟が。
父・・・「突然だけど、俺と母さんはリコンしたんだ。」
姉・・・「知ってたよ、そうだと思った。」
兄・・・「そうか。父さんは死なないでね。」
僕・・・「リコン?どういう意味?」
父・・・「リコンってのは、母さんともう一緒に暮らさないってこと。」
母と一緒にいられなくなる絶望 と 父親の家で暮らす恐怖心。
涙が止まらなかった。視野が狭くなる。目の前が暗くなった。
謎の古代文明の「地球滅亡の予言」で眠れなかった夜なんて可愛いものだった。
もう母親に会えなくなるなんて。
僕が大好きだった人に。
この家庭は、変だと思う。
離婚が発表されたその日から生活が、大きく変わっていくことはなかった。
母親は父親のいない昼間。
普通の装いで家に来る。普通の顔で。いつもの愛情で。
僕にとっての変化は、
①母親の朝ごはんをたべられなくなったこと。
②寝る時には母親がいないこと。
これだけだった。
だから、ちょっと辛いだけでそんなに悪くはなかった。
今思えば、離婚しているのに母親が家にくるなんておかしな話だ。
よくある光景、思いがけない結末。
中学を迎える年に、姉と父が大喧嘩をした。
原因は何か覚えていないけど、殴り合いにまで発展する大喧嘩。
父親が嫌いな私は、「がんばれ〜」と姉を応援した。
僕の家ではよくある光景だった。
もうこの頃になれば、父親と誰かが毎日喧嘩をしていた。
今度は姉の喧嘩だな。と思った。次の瞬間。
姉・・・「もう、こんな家には居られない。家出するから!」
父・・・「出てけ!気に食わんのならさっさと行けよ」
僕・・・「え?今、姉ちゃんなんて言った?」
次の瞬間、姉は涙を拭いながら、家を颯爽と出て行った。
「牢獄」とも感じれらたこの家から出ていく姉の姿に、憧れを感じていた。
人生で姉を「カッコいい」と尊敬したのはこの時くらいかもしれない。
この日から姉は家に帰ることは無くなった。
こうしてその日から、父と兄と僕での暮らしが始まった。
中学時代の日々。
中学校時代はやんちゃな学校で3年間を過ごした。
権力で支配層と非支配層が分かれる学校だった。
常に支配層でないと、恐怖があった。
支配層でありたいと思って、友達との交流も無茶に行った。
僕は学校の部活動ではなく、津市のサッカークラブチームに所属していた。
学校では、支配層の友達と過激な遊びを。
学校が終われば、地元ではちょっと強かったクラブチームでの過酷な日々。
学校、サッカー共に必死で大変だった。
もう耐えられない。そう思いながら、サッカーを続けた。
大切なものは目に見えない。怖いものも目に見えない。
中学では、なんでもないことがきっかけで、僕がいじめられた。
何も悪いことはしていない。
支配層に僕の存在が気に食わないことがあったのだろう。
学校では、「こっち向くなよキモい。」「汚ねぇ奴。」とか罵声を浴びせられる日が続いた。「あいつの親、離婚してるらしいぞ。」という言葉もあった。
クラブチームでも中学校でいじめられている噂が流れ、仲間外れにされる日々が続いた。
学校でのいじめによるストレス。
クラブチームでの仲間外れによるストレス。
サッカーを休む日が続いた。
「もう僕はサッカーをやめるんだ。」
人生で初めて、サッカーを辞めようと思った。
「何もしたくない。ただ家に篭って、ボーッとしていたい。」
そう思いながらも、
当時のストレス発散は「思い切りボールを蹴ること」しか僕にはなかった。
サッカーをやめたら何も残らない。
サッカーだけでも頑張って続けよう。
さらに迫る、目に見えないもの。
学校とクラブチームでのストレスから、家での態度も散々だった。
反抗期も相まって、父親とは何も話さない日々。
父親はたまに練習会場にサッカーを見に来ていた。
僕は嫌いだった父親にひどいことを言った。
「サッカー見に来んなよ、邪魔だし。先に家に帰って寝といてよ。」
当時の父親の心理状態を把握することができたなら、
こんな言葉は絶対に言わなかった。
父親はきっと「サッカーを頑張ってる息子の姿」を「日々の励みにしよう」としていたのだと思う。
愛した母親と離婚した上で、家庭を守らなければならなかった。
僕には想像できない重圧があったのだと思う。
それに僕は最低な言葉を放ってしまった。
当時の僕は未熟で、最低だった。
ここから、険悪な日々が続いた。
家庭内でも、毎日怒鳴りつけられ、僕は泣き喚く日々。
こうして、中学時代では
①学校でのいじめが続く日々。
②クラブチームで仲間外れにされる日々。
③家で毎日、父親に怒鳴りつけられる日々。
が続いた。
なんで、こんな家に生まれちゃったんだろう。
昔の幸せはどこに行っちゃったのか。。。
もう死んだほうが楽だよ。
どうして誰も助けてくれないの。
そうして、誰も家にいない真夏の昼間。
ハシゴ。ロープ。イスを用意した。
天井にロープを結んだ。
椅子に登り、ロープに首をかけた。
さぁ、楽になれる。
死ねなかった。
高校時代の日々。
高校は兄が行っていた影響もあって、伊勢の高校に入学した。
サッカーが強い高校で、部活動も本気で取り組んだ。
一緒に帰る友達とウイニングイレブンをしたり、大喧嘩をしたり。
仲がいいのか悪いのか。
高校は楽しかった。
なんと言っても、いじめられることが無くなったから。
中学校の人も、クラブチームで仲間外れにされた人もいない。
高校が遠いことから、帰りも遅く父親と接する時間も少なくていい。
最高の環境だった。
おまけに弁当は、祖母が作る「世界で一番美味しいご飯」
離婚する前ほどではないが、幸せと安堵。
明るい日々が戻ってきた。
高校2年生。また2年生。
高校2年生になって、衝撃の事実を知った。
・父親に彼女ができたこと。
・母親に結婚した相手がいたこと。
そんな中、母親はいまだに家に来ていた。
しかし、父親に彼女ができた。そこから、母親は家を出禁になった。
世間的には、当たり前のことだ。
しかし、母親はなぜか、隠れてでも家に来る。
息子と母の関係が離れられなくなってしまっていた。
母と会っていることに、父親は怒りを感じて僕に怒鳴りつける。
兄は父親の機嫌をうまくとっているため、怒られるのはいつも僕だった。
高校が商業高校だったことから、資格の取得勉強が夜遅くまであった時期。
家に帰るのが23時。朝の出発が7時。
家事をすることを考えたら、割とキツめのタイムスケジュールだった。
父と母に板挟みを受けるストレスと生活的なストレスから、友達に強く当たってしまうことが続いてしまった。
自分では気づいていなく、コントロールができていなかった。
そうして、僕は人生でまた仲間外れを受けた。
そんなに苦しいものではなかったけど、少しは青くて痛かったな。
食べることに欲がなくなり、1週間何も食べず、体重が5キロ落ちた。
辛かったけど、過去に比べたら辛くはなかった。
壮絶な大学受験。
大学受験、これはなかなかスリリングだった。
本命・・・愛知大学
滑り止め・・・愛知某私立大学 2校
スケジュールは
①滑り止め
②滑り止め
③本命
という形だった。
本命の愛知大学を受けるまでに、滑り止めの大学の合否がでた。
まさかの、両方落ち。
絶望、未来への恐怖。一気に世界が光を失っていった。
そうして、焦りを覚えながら、本命受験まで、必死に受験勉強をした。
そして迎えた当日。
「めっちゃ難しいやん。」テストを見た時、絶望した。
もう終わった、。。
そう思いながら、悔いの無いように問題を解いた。
回答速報を見て、自己採点した。
落ちたな。どうしよう。短期大学か?高卒か?
そんな崖に立たされていた。
終わった。
終わった。
大学には行けなかったな。
まさかの結果。
大学の合否発表の日、きっと落ちているであろう受験結果。
この時はネットで合否が発表されたので、サッカー部のみんなに先に見てもらった。
友達A・・・「こんなの先に見るとか言った俺が馬鹿だった。」
友達B・・・「もう切り替えるしかないな、、」
友達C・・・「俺たちがついとるから、大丈夫よ。」
友達A・・・「結果、一応自分の目で確かめといて。ごめんな。」
そうして、スマホの画面を見た。
友達ABC・・・「おめでとう!!!!」
まさかの合格だった。
この世で一番のドッキリは何かと言われたらこの瞬間ではないかと思う。
まさかすぎる結末と安堵で、世界に明るさが戻った。
もう幸せだ。神様、ありがとう。本当に神様っているんだ。
そう思った。
神様はいない。
大学受験合格の安堵で、電車でうたた寝をしていた。
その時に父親から「〇〇病院に来れるか」
とLINEが入っていた。
何かあったのかと思い、急足で病院に駆けつける。
祖母が脳出血を起こし、命が危ないとのことだった。
2時間前に明るくなった世界が、もう暗くなっていた。
神様なんていないんだ。
僕が大学に受かったから、悪いんだ。ごめん。
祖母は緊急治療室でなんとか命を取り留めた。
しかし、脳に壮絶なダメージがあったらしく、意識が戻らない。
泣き喚く祖父と父親と叔母、家族のみんな。そして僕。
祖母の意識は今も戻っていない。
最後に会話した日から、もう2年と半年が過ぎようとしている。
祖母は今も、病室で闘っている。
大学になったことも。成人になったことも。今の僕を祖母は知らないんだ。
徐々に衰弱していく、祖母の姿。
愛する人を失い、日々苦悩する祖父の姿。
愛する人を失う心の痛みを僕はまだ知らない。
半生を共に過ごしたパートナーを失う意味を理解できるはずがない。
前が見えない日々。帰ってきた辛い日々。
祖母が植物人間になったことから、精神的支柱がいなくなった。
祖母の作るご飯で幸せを得ることができなくなった。
世界で一番大好きだった祖母が作るご飯をもう食べられないんだ。
同時に、ご飯を作る人がいない。弁当を作る人がいない。
祖母が植物人間になった日から、僕が主にご飯を作ることになった。
HSPだったことから、味覚は繊細だと思う。
ある程度、料理はうまく作れるし、小さい頃から祖母の料理姿を見て勉強していた。
とはいえ、うまく作ることができなかった。
そうして、近所の洋食料理屋さんに修行に行って、料理を日々勉強した。
ある程度、美味しく作ることはできるようになったけど、時間がかかってしまう。
高校が終わって、電車の中で献立を考える。
帰って、食材を整え、料理をする。
なぜか、兄は手伝ってくれない。
父親の帰りは遅い。
誰も助けてはくれない。
部活がなかったことから、最初に家に着くのは僕だった。
洗濯、風呂掃除、晩御飯、ゴミ出し、お弁当作り、皿洗い、犬2匹の散歩。
高校生兼専業主婦のような日々。
HSPが相まって、責任がまとわりつき、徐々に体力をすり減らしていく。
体力的に辛い日々。
誰も助けてはくれないんだ。
冬の深夜2時。
キッチンに向かう。
包丁を右手に持ち、心臓に突き当てる。
その時。
「祖母がいなくなった。僕が強くなるしかないんだ。祖母は生きたかっただろうに。」
こうして、また死ねなかった。
日々は過ぎ、高校卒業を迎えた。
ここから先のことはまた今度。
僕のバックグラウンド。
ここまで、僕のバックグラウンドを綴ってきた。
長い文章だったと思う。
ここまで読んでくれた方には、ありがとうと伝えたい。
正直、文章に綴るだけでも体力をすり減らす。
辛い思い出が、フラッシュバックするから。
こうした人生を歩んできた。
幸せな家庭に生まれたわけではなかったと思う。
自分を誇りに思うことが1つある。
それは、生きていることだ。
首吊りロープに首をかけた時。
包丁を胸に突き当て、死のうとした時。
これまでの人生で、死のうと思えばいつでも死ねたと思う。
何度もの自殺未遂を乗り越えて。
ここまできた。やっとここまできたんだよ。
よく頑張ったと思う。
これからは、自分のために生きよう。
自分のために生きよう。
そして、植物人間になった祖母のためにも、良い人生にしよう。
だから僕は、自己理念を決めました。
「生きる意味を体現し、人に与える。」
なんのために人は生きるのか。これは人類の永遠の課題である。
誰のための人生か。それは自分のための人生である。
人や環境に邪魔されることはきっとある。
その壁を越えるたびに、強くなれる。
僕もそうやって強くなってきた。
幸せな家ではなかった。
でも、ここまで強くなって生きてこれた。
「生きてこれた」それだけで、僕の人生は幸せなんじゃないかな。
P.S ⒈ この文章を書いて眠りについた。
気がつけば、午前4時になっていた。
過去を振り返り消耗しながら、綴った。
気がつけば、夢の中だった。
夢の中で、大好きな祖母に会えた。
きっと、誰かが僕と祖母を会わせてくれたんだ。
夢の中で、祖母とたくさん話した。
料理を振る舞ってくれた。
夢の中だったけど、最高の時間だった。
目が覚めたら、枕が濡れていた。
僕は泣いていた。
あなたに会いたいです。
いつか、またいつかあの日のように。
昨日のような昔のはなし。
それじゃ、目を閉じて、また夢の中で会えたらいいな。
P.S 2. そして眠りについた。
2022 5/25 11:10
そして彼女は永遠に眠った。
最愛の人の前で、天へと一歩目を踏み出した。
きっと待っていたんだ。って。
その前日に面会した。
生きるために呼吸をする人間が、こんなにも儚いものだなんて、思ってもいなかった。
もし、横にナイフと銃があったなら、迷わずに右手を差し出したはず。
呼吸をするその姿があまりにみていられなかった。
植物人間となって、2年と200日弱。
長い戦いだった。はず。「頑張ったね、お疲れ様」
なんて声もかけてあげられないんだ。
「こんな恥ずかしい姿、みられたくない。」
話すことができる口がそこにあったら、そう放っただろう。きっと。
なぜか、「悲」や「寂」の感情が現れなかった。
やっと楽になれたね。と、本当にありがとう。を。
想像してみて。
ただ呼吸をするだけ、生かされている1000日近い夜を。
きっと苦しかったよね。苦しませてごめん。
いなくなって気づいたことがある。
僕の美徳の全ては祖母にあったんだと。
いつも笑顔で、弱音を吐かず、誰に対しても優しく。
いつも愛を持って接してくれる。
海のような。川のような人。
愛って何かって、教えてくれた人。
僕の愛した人。
あなたがいなければ、僕はどんな人になっていただろうか。
きっと、醜い人間だっただろう。
あなたがいなければ、
美味しいご飯の作りかたを知らない。
愛というものを知らない。
生きるということが解らない。
そんな気がして。
僕の心の中に、ずっといる。
狭くて、居心地の悪い部屋かもしれないけど、ずっとそこにいてほしい。
きっとあなたがそこにいてくれたら、大きな空間になってるはずだから。
足が不自由だった。歩くのが大変だった。
そんなあなたはもう、自由に歩くことができます。
そっちの世界はどうですか。
僕も気が向いたらそっちにいくから。
いつもの愛情で受け入れてほしい。
じゃあね。僕が愛した人。