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震災30年と齢26の僕。

「阪神・淡路大震災」発生から30年。節目となる「1.17」がやってきた。神戸市の広場「東遊園地」では5時46分に祈りが捧げられ、関西のテレビ、ラジオがこの模様を中継していた。
関西で大規模な被害をもたらした大都市直下型地震は今でも関西人の多くの記憶に残り、伝え続ける努力が行われている。

一方で、1998年生まれ、26歳の僕は経験していない身。リアルタイムは知らなくても、メディアや周りの大人を通じて聞いた話はたくさんあって、関西に住んでいるとなんとなく「恐ろしい」感覚だけは身に染みている。

滋賀でも

滋賀に住んでた中学時代、中2の担任から震災当日の話を聞いたことがある。担任が住んでた滋賀県米原市でも、震度5(当時)を記録し、大きく揺れた。担任はパニックになって、旦那様に宥められたとも語った。
兵庫の震源地と米原は100㎞以上離れているが、それだけの大地震だった証拠だと言えるエピソードだ。

大阪北部地震

聞いただけで過ごしてきた僕がこのことを身をもって感じたのは2018年6月のこと。「大阪北部地震」の経験だ。

この地震の発生当時、僕はJR膳所駅(滋賀県大津市)でアルバイト中。経験したことない大きな揺れとホームの構造物がガタガタ言う音が10秒くらいあった。怖さのあまり、何も防護するようなことはせず、ただ立ちすくんでいただけだった。
あとから調べてみると、大津市の揺れは「震度5弱」。この当時、自分の人生史上1番大きい揺れだった。僕の故郷では「1.17」以来同程度の揺れがなかった。ここではじめて、あの日の怖さがこういうことだったんだと思った。

帰宅困難者

地震後に退勤したものの、電車が動かないから家の方角へ歩いて、電車が動いたら乗るという作戦で帰ることにした。

膳所駅→山科駅(京都市)までの「6.8㎞」京都と滋賀の府県境、いわゆる、「逢坂の関」を越えて、約3時間歩いた。山科駅からは地下鉄が動いていて、地下鉄だけで竹田駅(京都市)へ。さらに、1駅歩いたが、近鉄も動いてることがわかって、自宅へ帰ることができた。

道中、LINEで妹に電話を繋いだ。聞くと、通学中の電車内でカンヅメになっていた。しかし、声色はかなり冷静だった。「3.11」のときにテレビで見た「帰宅困難者」を今この瞬間、自分が経験した。

防災の基礎は「1.17」

場所や時間問わず、さまざまな地震が起こっているが、関西人にとって「防災」を考える基礎は「1.17」と言える。身近なところやインパクトというところでは忘れさせてはいけないという気合いも感じる。

「1.17」のエピソードは少ない僕だが、「あの日から30年」という今日を考えて、いつかのために備えなければ。



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Yuki(ゆうき)
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