捻挫したらパラリンピックを観たくなった
こんにちは、負傷したいづつです。しかし、怪我も悪いことことばかりではないと思わされる気づきが得られました。
■捻挫した
9月1日(日)に段差を踏み外して、右足首を捻挫しました。本当につまらないただの足元不注意でした。激痛で3分ほど動けず。
倒れるとき抱いていた息子だけは放り投げまいと腕で庇ったおかげで彼は軽い擦り傷で済んで良かった。
■タクシー代が高すぎる
負傷直後の激痛が15分くらいでややおさまり、保冷剤で患部を冷やして、なんとか引きずりながらも自力で移動できるようになったので、医者に行くことに。日曜日だったので遠いところしか見つからず。なんで医者まで揃って土日に休むのかという文句はともかく、駅まで歩けないし右足なので自分で車も運転できず、タクシーを呼びます。
出張でよく使うのでわかっちゃいたけど、料金が高い。20分の移動で3000円持っていかれるのは日本くらいです。庶民向けキャバクラでもそんなにとりませんよ。早くタクシー利権は崩壊してほしい。二種免許所持者が安全運転だなんて盲信も甚だしい。検挙されるべきグリーンのナンバープレートがたくさん走っています。来年いらっしゃる外国人に幻滅されるでしょうね。年配のドライバーは英語もITも使えないし。
■エスカレーターとエレベーターが少なすぎる
捻挫の治療は安静にすることが一番ですし、会社に言えば休んでいいとか在宅勤務でいいと言ってくれそうなホワイト環境ではあるのですが、どうしても自身の意思として訪問したい顧客アポイントがあったので、翌日の日帰り出張は強行しました。
歩けるとは言っても痛いしできる限り右足に負荷をかけたくないので駅ではエスカレーターやエレベーターを探します。しかし、東京のこれらのなんと少ないことか。負傷して初めて気付くバリアフリー化の不足。エスカレーターがあっても2つ先の階段奥まで回り込まないとないので、その距離をこの足で歩いたら本末転倒だろと。
■ダッシュするほど健康なら座席はいらない
電車で座る権利を入手すべく我先にと駆け込み尻をねじ込むご婦人を見て、「元気じゃねーか」と思う局面も。エスカレーターの立つ側(東京だと左)の列に隙あらば割り込んでくるのもだいたいご老人。いや、年を召しても健康なのは結構なことなのですが、その視界に自分よりよっぽど座席やエスカレーターを必要としている人が映る余地はなさそうで残念です。そうやって図々しくしている人は、腰が悪くなっても誰も助けてくれず施設送りされるだけなのでしょうけど。
まあ他人を変えることはできないので、こういう問題は環境や仕組みで対処するしかないのですが、妙案は浮かびません。
■シェア自転車よりシェア車椅子
初訪問となる顧客の正面ゲートに同行者の車で到着。すると頻繁にここへ来ている彼から衝撃の一言が。
「敷地のほぼ反対側まで1kmくらい歩きます」
その直後は仕方ないと言って笑って歩き始めたのですが、300mくらいで痛みに慣れてくる右足。自己警告機能の劣化はまずいと思って、意識して足首ができるだけ曲がらないようにゆっくり歩きました。その時ふと、「駐車場近くにレンタル車椅子があれば使ったかも」と思ったのでした。同行者がいれば押してもらえるし。
歩行困難な人がどれくらい日中の移動を車椅子で過ごしているのか身近にいないので知りませんが、四六時中必要なわけではないのではないか。自動車に乗る場合には降りるでしょうし、バスや電車はそのまま乗り込みますが「入り口から座席くらいまでならなんとか歩けるんだよね」という人もいるような。だったら街中のあらゆる移動拠点、駅やバス停に、シェア車椅子なるものがあったよさそう。シェア自転車を提供するなら、その数の5%を車椅子やベビーカーにすることを義務付けてみたらどうか。車椅子がだめなら、せめて杖ならどうか。
■身体の一部をオフにして生活する日
歩行に支障が出るほど足を負傷したのはこれが初めてではないですが、この足で東京の交通網を利用して初めてまだまだフリーとは言えない環境バリアを思い知ることができました。今回私は右足でしたが、みんな身体のどこかしらをオフにして生活する日を、1年に1回設けてはどうか。片足でもよし、片腕でもよし、目でもよし。小学生のときに体験イベントのようなものをやった気がしますが、大人になったらほぼ忘れています。これは必ず時々やって認識をリフレッシュしなきゃいけないと思いました。
■パラリンピックの在り方
そうやって部分的オフであることの意味を共有する社会ができたら、むしろ「階段が普通で、スロープが例外」ではなく「スロープしかない」環境が許されてきそう。障がい者を引き上げて健常者に揃えるというのは美しい思想ですが、現実は無理ゲーなので、こうやって初めから障がい者になんでも揃えるというほうがすっきりするんじゃないかと。どうせ日本はまもなく老人大国になって身体が思うように動かないって人で溢れてくるのだし、先行インフラ投資です。
この考え方でいくとオリンピックとパラリンピックを再定義すべきではないかと思います。
- オリンピックは生身の人間の記録を競うもの。
- パラリンピックは身体拡張を認めて記録を競うもの。
選手個人に帰属する道具を使う競技はすべてパラリンピックにして、パラリンピックが普通なんだよという転換です。誰か似たようなこと言っていたなと思ったらNewsPicksのLive議論だった。
脚が動いたって車椅子に乗ればいいし、手指を使ってラケットを握るのとラケット付き義手を腕に装着するのはどちらでもいい。テクノロジーを使った身体拡張はだいたいなんでもありの大会にすれば、普通に考えて生身の人間より記録が出るのできっと盛り上がります。スキージャンプなんて板やスーツが実質的に身体拡張だからパラリンピックに分類すべきだし、義足の性能が上がりすぎて義足走り幅跳びの世界記録は健常者を上回っています。科学技術、恐るべし。個人的には足にヒレ(フィン)をつけて泳ぐフィンスイミングがパラリンピック種目になってほしい。凄まじく早い人間の泳ぎを見てみたいし、究極形がどんな形状のフィンでどんな動かし方に到達するのか興味あります。”Paralympics”というワードの”para”の部分、もともと下半身不随を意味する”paraplegia”が語源で、その後参加者を多様にした中で”parallel”に変えたそうですが、その”parallel”に科学技術を加えてしまえばいい。スポーツに限らず身体と科学技術は常に互いを求め合っています。スマートフォンが人の生活レベルを格段に引き上げたのと同じです。べつにいいじゃないですか、義足や義手のおかげで世界記録が更新されたって。
これは、そんなにぶっ飛んだ話ではありません。幼稚園や小学生低学年くらいならロボットが好きだしロボットになりたいなんてこと言うくらい憧れることもあるでしょう。そういう発言はひと昔前は障害者に失礼だという雰囲気がありましたが、部分サイボーグみたいな人がそのパーツを露出して大活躍し、スターになる姿を見せられたらそんなのどうでもよくなります。「大坂なおみと同じモデルのラケットください」と同じノリで「マルクスレームと同じモデルの義足ください」とか言い出したっていいのです。そのままでは脚を切らないと使えないけど、脚がついたままでも装着できる同様の機能のものがあったっていいのです。
■パラリンピックを観たくなった
つい先週まで来年のスポーツの祭典にはあまり興味なかったのですが、この捻挫を機に考えが巡ってパラリンピックを観たくなりました。来年は2歳の子どももいろいろ感じることがあろう。身体拡張に憧れるようなら一緒にロケットパンチでもDIYで作ればいい。
よし、まずはチケットを申し込んでみます。
Yoshiyuki IZUTSU
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