この中で罪のないものが石を投げよ

 キリスト教徒ではないけれど、学生の頃古典を読む一環で旧約聖書・新約聖書、ブッダの言葉、ソクラテスの弁明、論語あたりは読んだ。最近のSNSについて、この言葉を思い出した。

 私にとって聖書系は物語の形を取っていたので非常にとっかかりがよく、言葉も覚えやすいものだった。「天の光、地の塩となれ」とか。リズムもいいし。

 でも、覚えやすさを抜いても、このタイトルに掲げた言葉の衝撃は群を抜いていた。若かった私にどうしてこの言葉が強く残ったのか。多分、若くて驕り高ぶっていて、自分を賢いと勘違いしていたところで出会ったからだろうな。

 そして今、SNSというのは、便利ではあるけれど、簡単に人を傷つけたり、惑わせたりする「石」になりかねないのだと思っている。
 というのも、自分の中にも時々「石を投げたくなる」衝動を感じるからだ。ある出来事に不満を感じたとき、ふっとそのことをネットに投げ込みたくなる暗い衝動を持つ。

 ネットがない頃は、テレビを見ていて「○○さん、演技が下手」とか「××のギャグ、超つまらない」と声に出していっても、それを聞いているのは家族だけだったり、あるいは翌日学校で友達と話題にする範囲で留まっていた。単なる個人の悪口で、それが本人に届くことはなかった。届けたかったら手紙を書くか,電話をするか。でも電話だって直接本人にかけるわけではない。必ずテレビ局なり、事務所なりとクッションが入っていたはず。

 でも今は。SNSを使えば本人にダイレクトに届いてしまう。しかも時間差ない状態で。短い言葉にまとめるからよりきつい表現で。そしてきつい言葉の方が注目を集められるから。

 実際の石だって、昔は石器を使っていたように正しく使えば役立つ道具となる。しかし、使い方を変えれば凶器になってしまうのだ。つまりは使う人間側の問題ということ。

 さらに、問題を複雑にしているのが、「正義感」であると思っている。

 物事の好き・嫌いを思うのは自由。それは思想の自由で、誰にも侵されることはない。しかし、今その好き・嫌いを「正しい・正しくない」だと錯覚した途端に悲劇が起こるように思える。そしてその錯覚を正すのと、SNSで自分の「正義感」と思うものをどっちが時間がかからないだろうか。多分発信する方が速い。

だから私は、今こそこの古典の言葉「罪のないものが石を投げよ」を自分に言い聞かせている。自分が正しいと思っている石を投げられるほど、自分は品行方正なのか。

 残念ながら正しくなく、いろいろ失敗も犯している人間である上、上述したように世の中の出来事に文句も言いたくなる人間なので、まずはその自分の負の気持ちを拡散しやすいTwitterという手段を手放すことにし、他のSNSでも「自分のことしか書かない」というポリシーで参加することにしている。

 

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