『伝統武術の前途とは?』
2024年1月、アメリカユタ州の中国語新聞『東方報』で掲載されたリンヤンコラムを日本語に訳しました。
中国の武術は、火器以前の時代からずっと大きな役割を果たしてきましたが、清朝末期から中華民国時代にかけて、その最盛期を迎えました。形意拳、太極拳と八卦掌が誕生し、全国各地に名人が輩出しました。当時の武術は身体を鍛えるだけでなく、実用性を兼ね備えていました。運送業者やその用心棒といった職業(镖局)の実例から見て、当時の武術はその技を用いて身を守る実戦能力を備えていたと考えられます。
新中国成立後、政府は簡略化された太極拳を推し広め、普及させようとしました。その時、武術のことをよくわかっていないソ連の体操専門家の援助を受けて、一つ一つの動きを編成しました。こうして、現在皆さんがよくご存じの簡略化された太極拳ができあがったのです。それは、太極拳が本来持っていた実戦的な要素を取り除き、ただ外面的な形式だけを持つ一種の「太極健康体操」に変わってしまいました。
文革の時期になると、民間の武術家たちは名前を隠し、練習を公開することも技を伝授することもやめました。一部の流派では後継者がいないという危機が生まれました。私の師匠は、小さい頃、その師である何忠祺先生のお宅で、門を固く閉ざしこっそり稽古することしかできなかったそうです。
七、八十年代、武術映画の流行に伴い、中国武術は世界に広く知られるようになりました。オリンピックの種目にも加えられました。その後、「武林大会」のような武術競技会が始まりました。私たち現代人の生活の中に、武術はさまざまな姿を現しています。
ただ、このようなブームの背後には、伝統武術を継承する人々の苦悩があります。それは、伝統武術は現在および将来の社会において、どのような地位を占めるべきなのか、ということです。
簡略化された太極拳のように、武術健康体操になるのでしょうか。あるいはスポーツ武術として競技会やコンテストに向かい、より高く跳ぶ、より着地をきれいに決める、より難度を高めることを競うのでしょうか。あるいは舞台上で繰り広げられる武術舞踏として、人々の目や心を楽しませるのでしょうか。
または武術の特長を生かして、警察や特殊部隊の実戦訓練を助けるのでしょうか。しかし、実戦についていえば、毎日、高度で厳しい訓練を行っているボクシングや総合格闘技の選手に比べると、余暇を利用して練習する武術愛好家とでは、その実力かかけ離れていることは明らかです。同時に、多くの武術の技には、格闘技競技会における反則行為があり、それを使うことは許されません。警察などでの実戦と競技としての武術、この二つは、実は比べることができないのです。
だとすれば、武術には何ができるのでしょうか。
尹氏八卦掌の継承者として、この間に自ら体得したことと蓄積してきた経験を通じ、自らの知識と感覚に基づいていえるのは、次のようなことです。
武術を修練する目的は他人と比べることではなく、自分自身と比べることです。私たちは毎日積み上げていくたえまない練習によって、以前は達成できなかった技量を身につけることができます。このように本当に進歩することの楽しみを体感することにより、精神的な強さと充実を手に入れることができます。多くの先輩武術家たちの風格は、上品で落ち着きがあり、控えめで平静です。これが練達した武術家のいぶきであり、それは彼らの持つ内在的な力量の強さから来ています。これは、私が昨年このコラムに書いた「能動的な内在する禅定力」と同じことです。
同じ一つの豆腐であっても、様々な調理方法があります。同じ一つの武術であっても、人によりさまざまな見方があるのです。
2024年1月、リンヤン ソルトレークシティーにで
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