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「学」と「習」について。
コロナ環境のなか、子供たちのオンライン受講をみていると、どうしてもスクリーンから資料を読みとる時間が長いようです。
この環境だから仕方がないことですが、以前聞いた「学と習」の話を思い出しました。
昔、19世紀までの書籍のスタイルは日本も中国も同じ:句得点もない、段落もない縦書きで、とても読みにくいものでした。
読む人は片手に本、片手に筆を持ち、読みながら点を入れたり、線を引いたりする作業が必須でした。
一方、現代の書物を見ると、一般読者が手に取る雑誌や本では、できるだけ短い文で改行する傾向があります。
現代人は、長い文章やセンテンスが苦手になっているようです。
特に電子版の文章は、段落と改行はもちろんですが、写真を入れたり、文字サイズを変えたり、大事なところに線をひいたり蛍光色をつけたり。。
さらさらと読めるように、編集面でさまざまの工夫が凝らされています。
一見大変親切ですが、読む側は、知らず知らずのうちに編集者の意図する方向へ誘導されてしまいます。
昔の読書のように主体的に作業しながら読むのではなく、ほとんど受け身だけの読書スタイルになっています。
はたして、それは本当に有効的な勉強法なのでしょうか?
孔子の有名な「学而時習之,不亦悦乎」という言葉は、「学と習」は「二人でするダンス」の関係だと指摘しています。
「学」とは、習う対象や目標のことを指します。一方の「習」は、自らの勉強の態度と行動のあり方をいいます。
いま、身の回りで知識を提供する方法が多様化してます。
新聞、雑誌、テレビ、書籍、スマートフォン、Facebook、ライン、友人からのお勧め情報。。
毎日たくさんの情報と知識を得ているような錯覚があります。
(ノートをとらずに、スマートフォンで資料を写真に撮る方法もその例だと思います。)
でも、そんな知識は、いったいどれだけ確実に自分のカラダに入って、消化されているのでしょうか?
相手側からが提供される知識と、自分の中で習得した能力とは、別物です。
得た知識を自分で嚙み砕く作業を行わないと、それは目の前であっけなく消えてしまいます。
「習」の文字ですが、上は「羽」、下は「臼」。本来の意味:生まれたばかりの小鳥が、臼から羽ばたいて、飛ぶ練習を表してます。
このように身体を使って行う高い頻度の反復運動が、「習う」です。
「学」で、得た知識を、視覚を媒介して、頭のなかに運びこみます。→「知識を知る」
「習」とは、外から得た知識と自身の努力を結合させる過程です。→「能力を習得」
いまは、学ぶことは十分かも知れませんが、「習う」ことが欠けてるのではないかと思います。
声を出して読んだり、ペンを持って、線を引いたりノートに書いたり、自分の頭で考えて分析するなどなど。。壁にぶつかったり、挫折や苦悩を経て、継続と反復の身体運動によって、ようやく困難を克服し、体得したものは、「知識」から「能力」へ昇華されます。
それで得られた能力は、身体の記憶から消えることはありません。自転車に乗る、泳ぐ、言語を話す。。などの能力と同じです。
一水空のコンセプトは、身体の軸を整えるところから始め、気持ちやこころを整えることを目指します。「習う」意味を理解するための、分かりやすいプロセスだと思います。「有効な学習」のあり方を考えるとき、知識を得る「学」とカラダを使った「習」をセットで行うことが大切です。
身体と頭とこころをリセットし、良い状態を作り出すために、一水空をトライすることをお勧めします! https://yishuikong.com/
この記事は一水空のFBで出したものです。(2020年6月15日)
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