いいね、リツイート、承認欲求

 世の中で「目立つ」ということはリスクを抱えている。それは実社会でも、インターネットのような模倣的社会でも変わらない。

 目立つということは、大きく分けて「優れているか・奇特であるか」に二分化される。

 前者は妬み嫉み僻みを買い、後者は侮蔑と嘲笑、野卑た感情の対象になる。

 「目立つ」ということは元来、自身にとってネガティブな側面をより多く孕んでいることなのだけれど、少なからず現代人の感覚は「妬まれずに目立ちたい」「憧れを持って馬鹿にしたい」というような、優越性のある自分の存在に憧れているように思う。

 情報媒体の変遷と共に、社会の仕組みが個人同士の繋がりを大きく変え、かつて家族やご近所付き合い、仕事付き合いで得られていた「社会的承認」を現代人が真摯に受け取ることができる環境は減っているようだ。

 新聞、ラジオ、テレビ、インターネットなど、メディア媒体の拡がりが激化して行くたびに、単一の評価軸で支えられてきた人々の「象徴からの承認」が多元的になっていった。

 一面記事、批評家、大物ラジオパーソナリティ、著名人、インフルエンサー。

 親。

 それに属する人々の「大司祭である象徴者」は別のメディアからすれば悪魔的叛逆者であり、無知者になり得る。

 人々の社会的承認を支える象徴者の一元性が曖昧になった結果、個人の承認欲求はそれぞれが所属する舞台(界隈)におけるユニークインプレッション、いいねや拡散度合い(知名度)に依存する軟弱なものになってきているのが、令和社会の個人と社会の関係性なのではないかとぼんやりと感じている。

 社会基盤となる情報ソースが分裂している現代では、本来、情報の恣意的な操作や煽動により行ってきた「世論操作、社会的目標の設定、社会に対する盲従」が機能していないといえる。

 一方で、拡散されていくインターネット世界では目指すべき理想が存在し得ないために個々による独善的価値観が溢れかえっている。多くの人々は自分の利をあげることに精一杯で、もはや共通の理想郷を発見できず、団結し得ない。

 拡散力を持つ個人はあらゆる発言に縛りを受けており、また自分が苦労して手に入れた地位を手放すことを惜しむために、利己的な自分として社会を無視して自分のコミュニティで生きるか、道化として社会悪的な対象を安全圏から批難し、自らの手は汚れぬように注目の的でいるかの二極化が進んでいる。

 彼らは現代の承認ゲームを既に勝ち抜いており、安全圏を死守することが基本的な目的になっているために、社会をどうにかしようという意識が各々の発信に見られることはまずない。

 いいね、リツイート、承認欲求を軸としたインターネット資本主義社会では純粋な芸術作品は産まれ得ない。

 作品の内容よりも、どれだけ脚光が当たるか、噂が広がるか。マーケティングありきでトップセールスは伸びてくる。

 プロ級アーティストが群雄割拠し、大衆の評価という運的要素により互いの鎬を削り合うイマ、全ての作品は規格にあわせてつくられた製品になっていく。

 商業化された商品を我々が語るとき、無意識のうちに「私の解釈はみんなとズレてない」という安心感を求めているのであり、作者の意図や作品の意義というものもラベリングされていっているように感じてならない。

 私がいいねとリツイートで肯定・否定される時、それをする誰かは常に「右に倣えができる自分」と「異端である自分」を天秤にかけているだろう。

 特に何も考えずに書き始めてオチ考える体力がないのと書き飽きたから辞めます。

 何が書きたかったんですかね。
 
 多分、承認欲求を軸にした価値基準の陳腐化についてもっとゆるく書くつもりだったんですけど……

 自分の目立つことで叩かれることへの不快感を語ることが嫌だったのでメディア史と絡めて陳腐化について述べようとしたんでしょうかね。そういうのは資料用意してちゃんと書けって自分で思ったから投げ出すことで終わらせたんでしょうね。

 今日は雨が降ってて憂鬱です。雨が降らなくても憂鬱なので、雨のせいにするとよくないかも。

 だいたい全部お金がないことが悪いので、時代のせい、政治家のせいにしておきましょう。みんなが満たされる程度にご飯が食べられて、くだらないことについて話し合って、幸せそうな顔をしてれば、お金なんてなくても楽しく話していられるのにね。

おわり

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