雑記 20220212

 ぼくは趣味でよく語学学習をする。学校という場では語学について、殆どの授業を受けた覚えはない。中学校から家庭内の問題により、通学が困難になっていた。一人で正に中二病的といえる自問自答を繰り返していた覚えがある。ぼくは学校での勉強が嫌いでならなかった。テストの点を取ることは結果ではなく、過程だと思っていたからだろう。学校という場所はぼくにとって、知識を与えられる場所や新しいことを知る場所ではなく、何かの型に当て嵌められに行くような場所だった。

 ぼくは世間からみると、どこにでもいる落ちこぼれで、ただの引きこもりの一人だっただろう。何かを知ったり、それを実践したりすることはとても好きだった。でも、それをどう使えば自分を善く導けるかは未だに理解できていない。目標となる地点がないときに、人は何を目指すんだろうか。

 ぼくは自分のためだけになることにはあまり興味がない。ぼくが楽しいことをぼくが望んで行動しても結果はわかっているから。わかりきったことをするのは、それが成功しても失敗しても、ある程度予想していたことには意外性がなくて、自分の行動の動機としては弱いらしい。他人のためになることをするのが、自分にとっては望ましいけれど、その他人にとっての自分は一体何になるんだろうかと、長い間答えを探している。代わりはいくらでもいる。

 「代わりはいくらでもいるなら、代わりがないものを作ればいい。」というのが十代の頃のぼくの答えだったと感じる。それは、単に奇を衒ったものでも、どこまでも都合のいい人間になることでもなかった。代わりのない個性とはつまり、色々な人間的要素を兼ね備えたモノだと今は思う。上手さ、下手さ、豊かさに乏しさだって立派な個性だ。個性とは本来、カテゴライズして、較べられるようなものじゃない。それらの要素をすべて併せて捉えた像こそがその人間の個性だからである。同じ個性をもつ人間は存在し得ない。

 様々な条件環境の中で生きる人々に、同じ要素があると強調することで共感性を持たせることが、人間同士が無秩序に争わないための条件なのだろう。教科書に載っていたホッブズ、ロック、ルソーの主著を読んで、人間の自然状態(人間が集団的共同体を形成する前の状態)についての考えはわかっておらず、思索の上でこの自然状態には未だ多くの矛盾や疑問点が存在することがわかった。

 ホッブズは無秩序の闘争状態の抑止のために共同体は芽生えたとする。ロックはホッブズの思想を基に所有権(財産や土地の所有)に基づく社会契約の前身的理論(社会はそれらの相互的な保護や維持を望む人間たちの協力を契約することによって為されたとする)を唱えた。ルソーが完成させたとする社会契約論では、ローマ時代の政治体系の変遷を鑑みて、当時の君主国家を批判するように、人民による一般意志に基づく政治が望ましいと論じる。

 一般意志とは、個人が個人の自由と利益、そして公共的な自由と利益を各々が考えられる市民(シトワイヤン)によって共有・同意された規律と法であり、カントの定言命法に近いものだと考えられる。ルソーは、この一般意志によって、政治が善く導かれていくことを夢見た。実際にはこの三人の書物はキリスト教世界観的にはとんでもない思想書ということで、禁書目録に登録されているし、ロックは一時亡命、ルソーは祖国ジュネーヴを追放、フランス、イギリスを転々として、晩年は精神を病んでしまっている。

 それでも、彼らは思想を繋いでいくことを辞めなかったという点が興味深い。彼らの政治哲学の背景には十三世紀イングランドのマグナ・カルタや十七世紀末イングランドの権利の章典があり、十七・十八世紀には啓蒙思想が広がっていく。

 ざっくりとした説明になるが、啓蒙思想とは、人間の理性の中には普遍の真理が存在する。ということを基本理念にし、既存の教会権威(神)を絶対とした主張から、経験論(実証に基づく理論)による、新しい世界の在り方を主張する。宗教と科学による論争は激しい対立を生んだ。その後、啓蒙思想はそれぞれの分派に別れ滅亡するが、神に縛られた西洋哲学を、人間のものにしたという功績は大きなものだろう。

 このような哲学をかじったことがある人にとっては常識でも、知らなければ知らない世界や価値観は、それぞれの分野の数、それの分派の数だけ存在する。自分という人間の時間はこの膨大な情報を生きる中で、ほんの少しの時間を借り暮らす存在にすぎない。構成を練らずに文章を書き始めると後悔する。当初書こうとしていた内容よりも、書かないといけない気がする。という文章を優先してしまう。

 今回書こうと思っていたことはまた気が向いたら書こうと思う。

 

本来書きたかったこと。

 我々は記号(アルファベット・文字)を使わないと物事を考えることはできない。
 言語と思考には密接な関わり合いがある。
 言葉が考え方を作る? 考え方は使う言葉で変わる?
 多言語学習をする理由は?
 言語の音と文法。
 日本語の面白さ。
 内向的、或いは大きな欠損を持つ人間にしか宿らないものの考え方。
 優しさや思い遣りは言葉でそれを描けるかどうかに依るか?
 学校教育の指導のクソさ。外国語は文法よりも、先ずは音。
 日本語文法をよくわかっていれば、外国語は音と語彙を知っていくだけ?
 語彙とは何か。スキーマの形成。

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