有象無象のお前とおれ
寂しさとは何か、自身の存在の証明が不十分であることの証左だと思った。こんな四時半ごろまで、独りぼっちで寂しくすごしてたらいくらでも寂しくなります。だって、お前社会からも同居人からも必要とされてなくね? って、意識してない自分のネガティブなイメージが無尽蔵にあふれ出してくるわけですよ。
じゃあ寂しさは消えへんの? って自問自答をするけど、他者的存在に何かを求める限り消えへんよね。って分析するわ。何回も書いてると思うけど、他者からの存在肯定・保証がある。だからこそ自分が自分としての統合された意思を保ってられるって了解すれば、消えるほうがおかしい。人間じゃなくても、動物でも物でもいい、それがお前を証明してくれへんなら、お前がお前であることを維持するのは難しい。
例えば、毎回違う名前で呼びかけられたり、毎回違うものとして認識されたらめちゃくちゃ嫌やと思うんよ。そう思うと自己認識なんてすごい頼りないもんやと思うわ。自分が自分である証明って、結局自覚的なものにしかなりえへんやん? 有名なデカルトの発見だって、受け手がおらずに彼の頭の中でぐるぐるしてるだけやったら、それが本当かどうかなんてわからんやん? 証明って、それを共に考査する存在があるから真偽が決定できるし。
人間っていう生き物である限りは誰かと一緒に生きていくほうが得策や。だって、一人で過ごせるなら、本当に誰も要らんし、殖える必要もないもんな。独りで永遠を過ごすことを考えたら、そりゃ劣化コピーでもいいから、とりあえずなんかつくったろかとか思うかもしれへんわ。人間の感覚ならそうする。
人間は他者を必要とする。他人のためになにかするってこと、それは結局巡り巡って自分のためになるし、相手がようわからんやつでも、親切はしてみるもんや。
親切をするってことは大した取り決めやないしな。当たりがええだけで、結構相手の態度も変わってくるもんや。挨拶はちゃんとする。ごはんは可能な限り食べる。困ってる人がおったら助けたる。道徳と倫理を説くなら小学生にでもわかりそうなことだけ書いてりゃええねん。
おわり