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戦後の記憶

見田宗介の論壇時評『白いお城と花咲く野原』から。本記事は5回目。一応ラスト。

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世界が手放される時 ー戦後理念の地崩れの後(1986年1月30日)
「ところが現在の社会では、今言ったような世界に対する理想そのものが、ひとっびとの世界像のなかで、生じないんじゃないだろうかという事がある。じゃ、世界に対する理想が生じないような人間にとって、僕等が持ったような、そういう生きかたの革新というのは、どのくらい言葉として届くか、つまり普遍性があるのか。(略)いくら突き詰めてももう届かないのじゃないだろうか、という感触があるわけです。」
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これは、竹田青嗣の言葉である。
この届かないという感触。

『文藝』の「戦後思想再見」という特集に記載されたものだ。
戦前戦中の記憶を持った世代、戦後の記憶しか持たない世代、戦後の記憶どころか戦争の香りすら知らない世代。

伝わらないという感情は、強い焦燥感をもたらしたであろう。聞く側も理解する姿勢は当然求められるが、「伝わる」ほど理解できないということだろうか。

「戦後」というのは、いつまで戦後とされるのだろうか。
「もはや戦後ではない」という言葉が出たときから戦後は終わったのだろうか。それとも令和の時代でもまだ戦後と言えるのだろうか。

前回の4回目の記事でも同様だが、来年は戦後80年という年になる。来年に向けて色々考えていきたい。

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