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「ふつう」が普通じゃない世界

今日は、わたしが最近ぼんやりと、でも確信を持って考えていることについてです。

最近、こんな話をすることが多いです。
それは、
「いわゆる、グレーゾーンと呼ばれる子どもたちが増えている」ということ。

実は今日、わたしの勤める保育園の園長先生とわたしが現在保育補助としてメインで入っているクラスについてのお話がありました。
この保育園では、3〜6歳の縦割り保育をしていて、異なる年齢の子たちが一緒にアクティビティをする場面も多いです。
日常的な朝の会や給食などはこの縦割り保育によるクラスで行動しています。

そんな縦割り保育、わたしが入っているクラスはいわゆる「ケアが必要な子」が多いクラスです。
クラスに18人くらいいますが、正直、全員を個別で見る必要があると言っても過言ではないくらいだと、今日園長先生も言っていました。

ちなみにこの18人、ほとんどがなにか障害があるとか、診断が下されている子ではありません。
あるひとつの行動で見せる反応がみんな違い過ぎていて、あっちの子をフォローしたらこっちの子の集中力が切れている、と思ったら向こうで関係ないことを始めてしまっている子がいる…みたいな感じ。
クラスのまとまりもないしひとつの指示でみんなが同じように動くことはほとんどありません。
プラスアルファでいろんな声がけが必要です。

そしてこの収集のつかない感じは年々増しているそうで、
現場の保育士さんも、「難しい」と発言することが多いなと感じます。

この難しさはむしろ、とっても自然で愛しい現象

でもこの現象、わたしは、社会の歪みを隠すことができない世界にどんどんなりつつあることを表していると思うし、
正直、この子どもたちが本来のわたしたちの姿であり、それをひとつの型に不自然にはめてきたのが今までの社会であり教育であったのではないかと、
思っています。

そして、そんな子どもたちに出会うことで、わたしたちがつくってきたこれまでの社会が、本当に最善のものなのか?問われているのではないかと。

昔から思っていたのですが、たとえば「障がい者」っていう言葉って、健常者と呼ばれる人間からの目線でしかないと思います。
「障がい者」の立場から見たら、健常者を不自然な人だと思うだろうから、
わたしたちはただの一側面で社会を認識しているということに自覚的になるべきだと思います。

そう考えると、なんてことない定義だと思いませんか。
「障がい者」なんて言っているのも、わたしたちのものの見方によるものなだけで、
人が勝手につくったものです。

「世界は変えられる」

わたしは、世界は変えられると思っています。

だって、資本主義社会だって、この社会にある常識だって、全部人間が作り出したもの。
それに歪みが出てきたら、また書き換えれば良い。
だってわたしだって人間だもん。
自分たち人間が作り出した世界によって人間が苦しむというのはなんだか不思議なことだと思います。

いまのウイルスがもたらしたのは、この世界の当たり前を考え直す大チャンスだと思う。
どんどんいまの自分たちに合った世界にしていきたい、そんなことを最近強く思っています。

それはわたしが現在コミットしている、育児、保育、教育分野でも同じ。
どういうシステムが存在していて、その中でどんな恩恵と歪みが生まれてきたのか。
それを知るためには、いろんな本を読んだり俯瞰して物事を見たりすることが大事です。

いまの子どもたちを見る。
いまの子どもたちから学ぶ。
試行錯誤する中で、今までとは違うけど、このやり方なら反応がいい子が増えたな…
とか、そういうことを積み重ねる必要がある時代に生きているなと本当に実感します。

だから、今日も明日も明後日も、物事をしっかり考え、調べ、自分なりの行動をする。
そんな姿勢を持っていたいなと感じた、1日でした。



ちなみに、ここまでの話にまったく関係ありませんが今日は学習支援のまなびやをおやすみしました。
娘の体調が悪く、まなびやが始まる前に保育園からお呼び出しがあり…
来てくれた子どもたちがいたら申し訳ないです。
来週は天気もすっきりして、会えるといいなと思います!

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