「基本的な出会い」とは ~ベーシック・エンカウンター・グループに参加して~
先日、御嶽山のふもとで2泊3日で開催された「ベーシック・エンカウンター・グループ(南山大学人間関係研究センター公開講座)」に参加しました。昨年からのPCA(パーソン・センタード・アプローチ)関連講座への参加、その一旦の締めくくりとして集中的グループ体験の場に身を置いてきました。昨年秋のTグループ参加から約1年というタイミングで、自分にとってはちょうどいい頃合いの参加でした。
カール・ロジャーズによる来談者中心療法は、日本におけるカウンセリング技法の主流と言っても過言ではないでしょう。半ば教条主義的にとらえられてしまっている状況もしばしば見られますが、ロジャーズはその一生をパーソン・センタードの探求に捧げており、それは彼自身が自らの仮説に向き合い続けるいとなみだったのではないかと思います。ですので、今回、私も「試みる」という姿勢でグループに身を置いたつもりでいます。
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ベーシック・エンカウンター・グループは非構成の集中的グループ体験です。グループとして7~8名が集い、1~2名のファシリテーターがつきますが、車座になってセッションが始まった後は、何を話すか、何をするかは特に決まっておらず、指示も無く、すべてはグループに委ねられます。
ただ一つ、グループの厳格な約束事として、グループの中で話されたことや起こったことについての「守秘」があります。したがって、今回の私の記述は、私の内面で起こったことの振り返りに留まります。
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私はセッションが始まってまもなく、「透明な状態」を味わいました。私は確かにこの場にいるのですが、自分の存在がよく分からない、曖昧な感覚です。無に近いのですが、何か「落ち着かない感覚」を味わっていました。誰かを待っているというか、そんな気持ちもあったように思います。
グループの誰かが口を開いて言葉を発してくれたことで、「透明な状態」にいた自分に形のようなものができました。思考が巡ります。自分は何か話したかったことがあったのではないか?なぜ言葉が出なかったのだろう。そんなことを感じていました。日常でもそういう場面は少なくないな、自分の感情や思考を止めておこうとする何かがあるのだろうか、何故そうなるのか、と。
一方で、ゆっくりと、話しをしてくれている人の言葉に耳を傾け、私に湧き上がる感情に向き合ったり、考えを保留したり、その人の気持ちを慮ったりしながら、丁寧に「分かろうとする(≒共感する、≠同意する)」ことが、自分にはとても贅沢で豊かな時間を過ごしている気持ちになりました。話している人は、その人自身の命を使ってグループに自らの人生を開示し、はたらきかけています。そのことをじっくりとグループで取り扱うことは、過度に効率を求められる現代にあっては、まさに非日常のいとなみに思えてならないのです。
それでも、話している人の言葉がうまく伝わらないことは起こります。そんな時に、私は、「その人ともっと出会いたい」と思い、その人の言葉によって湧き出る私の言葉を率直に表に出すようにしました。私の応答はダイレクトさに欠けるところがあるので、もしかしたらグループの話の腰を折ってしまっていないかな、話してくれた人のことを尊重できているかな、と当初は心配しながら話をしました。
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セッションが2回3回と進んでくると、グループのお互いがお互いの話を尊重しあっている状態だと信じることができてきましたので、できるだけ自分の内面で起こっていることを素直に表に出すことを試みることができました。そうすることで、「自分に出会う」ことの輪郭が浮かび上がってくるように感じました。「これは確かに自分である」という感覚に心地よさを覚えると同時に、「自分でない」ということが日常どれだけ起こっているかも自覚を迫られます。その良し悪しを考えることは保留し、そういう自分がいるということを自分自身が受け止めることに集中しました。
グループの一人ひとりの語りが深まってくるにつれて、その人自身の人生に触れる場面がしばしば訪れ、私はその人との「出会い」を味わうことに没頭しました。その際、ファシリテーターの発言者へのかかわり方が本当にその人のことを分かろうとはたらきかけることに徹しており、非常に学び多いものがあります。ロジャーズによるカウンセラーの態度条件としての中核三条件はあまりにも有名ですが、「一致」「無条件の積極的関心」「共感的理解」の実践とはこういうことか、と感じ入りました。私の「出会い」のあり方はまだまだ未熟で、これから経験を積むことが必要だと痛感しました。
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私が心をオープンにすることで、相手から「出会ってもらえる」可能性が高まるとも思いました。何度か、相手から私に率直な言葉を送ってくれることによって、私の心を喜びが貫くような場面があり、その時こそが「基本的な出会い」の瞬間であるように感じました。一方で、グループのやりとりの中で「分かり合えなさ」を分かち合おうと試みる、努力する、という場面もしばしばあり、そのこともまた「基本的な出会い」なのだと心がチクチクするような感覚を味わいました。
「分かり合えなさ」は対話を深めることにより必ず克服することができる、という希望のようなもの、確信のようなものをグループの体験を通じて強く感じました。PCAで大事にしている傾聴を丁寧に実践することで、「分かり合えていない」「聴いているようで聴いていない」「見えているものがお互いにズレている」等、グループの中で明らかになり、そのことを肯定的に扱えるようになってくるのです。正直、日常生活のスピードでは難しいことかもしれません。でも、そのような体験をしているのとしていないのでは、日常のコミュニケーションの質が全然違ってくると思います。
このような体験をセッションが進むにつれて重ねてゆくと、最初は「透明な自己」であった自己意識は、自分の周囲にグループのみんなが一緒にいてくれることで「透明」ではなく「彩られた自己」になってゆきました。驚いたことに、グループの長い沈黙の中にあっても、私自身信じられないような安心感に包まれているのです。溶け込んで、ずっとこうしていたい、とすら思う気持ち。これは変性意識状態なのでしょうか、とても得難い体験でした。
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以上のようなことが私の内面で繰り広げられましたが、どうしても抽象的な記述になってしまい、中々伝わりづらかったのではないかと思います。日本全国各地でエンカウンター・グループは様々な形でおこなわれていますので、関心のある方はキャッチアップいただいて、ぜひ一度はその場に身を置いて「基本的な出会い」を体感いただくことをおすすめしたいと思います。
また、今回、Tグループとベーシック・エンカウンター・グループとの違いを書こうか迷ったのですが、私の体験のみからnoteに記述することは誤解を生むリスクが大きいと判断し、見送りました。こちらの話題は直接お会いして語り合うことを大切にしようと思います。
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今回は、「基本的な出会い」とは、についてお話しました。私は会社勤めとの複業でライフキャリアデザインカウンセラーとして個人や世帯の職業生活設計や資産設計のお手伝いを志しております。保持資格としては国家資格キャリアコンサルタントとAFP(日本FP協会会員)をコアスキルとして、これまでの会社生活や人生経験で学んできたことを活かして会社内や地域社会に向けた価値創造につなげてまいります。ご関心を持っていただいた方、ご相談事がある方は、どうぞお声がけください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。