2024.09.10私は悪くない、〇〇が悪いというマルクス階級闘争史観

こんにちは。昨日、会社の飲み会で、少し前までは上司がいくぞと言ったら皆飲み会に行ってたし、会社も同僚での懇親を推奨しているようなところがありましたが、今では誘い方によってはパワハラ、アルハラと訴えられる恐れもあり、上司は誘いづらく、結果、飲み会は最小限になったねという話が出ました。

まあ、このことで自分が自由に出来る時間を持つことが出来るようになったのは確かですが、間違いなく以前の会社の方が活気があったし、楽しかったのは間違いありんせん。このことをどう見るか?という問題です。

私たちは何となく世の中がいい方向、スマートな方向に向かっていると思い込んでいます。なぜなら、飲み会を強要するような上司は居なくなったし、女性は男性の経済的支配から解放されて自由になったし、貴族が独占していた参政権は庶民も持てるようになったし、封建的な身分制度からも解放されたし、それは元を正せば、フランス革命で「悪の権化」とされた王を打倒したためでした。

つまり、我々を苦しめる存在を歴史的にことごとく打倒していった結果、世の中は民主的になり、進歩していっているという考え方が普及しています。こういう見方をマルクス階級闘争史観といいます。

マルクスの共産革命による私有財産の否定や皆平等の理想社会を実現しようとする試みはソ連崩壊によって失敗だったことは周知の事実となりましたが、階級闘争史観は未だに我々の歴史教育に深く入り込んでいます。

我々は無意識に王が悪い、貴族が悪い、世襲制度が悪い、男が悪い、親が悪いと思うように仕向けられています。生きていて誰もが不満を感じる時はありますが、その時、これは誰々のせいだと反射的に外部の人間に責任転嫁するように我々はプログラミングされているのです。

実はこのような考えは、ずっと続いてきた我々の伝統(例えば神社とか天皇とか、我々の誇りになるべき歴史のある事柄)を壊し、家族や地域コミュニティなど大切な繋がりを破壊するのに利用されやすい考え方だと言えるでしょう。


共産主義者(=グローバリスト)は、我々が歴史教育などを通じて組み込まれた「自分たちが苦しいのは〇〇のせいだ」という被害者意識を上手に利用して、伝統やコミュニティを破壊して、自分たちの支配しやすい状況を作り出します。

その時の彼らの言葉は甘い蜜のように魅惑的です。しかし、騙されてはいけません。この言葉に乗せられると社会は悪化していくことになるでしょう。

だからこそ、マルクス以前の殆どの哲学や宗教では、苦しみは人間の一部であり、苦しみを受け入れることは全体と健康のために必要なことであると教えていたのです。

苦しみはありますが、そこから逃れるために伝統を破壊することはあってはならないと私は感じます。

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