昭和の「日本レコード大賞」大賞受賞曲について(Rxヒット指標)分析してみた
【はじめに】
この記事では、昭和の「日本レコード大賞」大賞受賞曲を、Rx独自のヒット指標を通じて見ていきたいと思います。
(↓)ちなみに、前回先行公開した「平成・令和版」はこちらからどうぞ!
0.記事を書くキッカケ
この記事の公開が2021年12月29日ということで第63回「日本レコード大賞」の発表直前となります。
前回の記事も同じなんですが、要するに、「レコ大」の過去の大賞受賞曲を振り返るだけでなく、「レコ大」というコンテンツの全体での趨勢を捉えられたら良いな、と考えたのです。
「日本レコード大賞」は、1959年(昭和34年)に第1回が開催されました。昭和が64年までだったことを思うと、昭和の後半(ほぼ半分)から続いている計算になります。
1950年代から2020年代まで続く“賞レース”は比較的貴重です。時代の遷移に従って、紆余曲折があったことは想像に難くありません。
つい、「“最近”のレコ大は……」とか「昔のレコ大は良かった」と単純化して考えてしまいがちですが、大きなトレンドの中に、年単位で見ていけば好・不調みたいなものが何となく感じ取れるのではないかと思ったのです。
1.昭和の大賞受賞曲と得点内訳
早速、リストアップしたものを見ていきましょう。「№」の欄は、第何回かを意味します。名前を見るだけでも錚々たるメンツです。
累計pt(ポイント)は、ヒット度合いを大体で数値化したと捉えて下さい。また注にも書きましたが、各種データが整備されていない時期を含むため、ざっくりとしたトレンドを把握するための暫定値:軽いノリでご覧下さい。
平成年間で最も高い値だったのが370.2万の「TSUNAMI」でした。昭和では310.1万で「いつでも夢を」が最高。それに「柔」が247.9万で続き、200万を越える楽曲もチラホラ見えるといった状況です。
平成以降に比べると、昭和はミリオン(100万以上)が大半を占めており、平均値は150万弱ですから、やはり全体的に格が上という印象を受けます。
2.得点内訳に見るトレンド
数字の羅列では分かりにくいので、Excel(にぶち込んで)簡易的にグラフにしてみました。それがこちらです。
青色のセールスは時代が下るにつれバラつきが目立ちますが、その一方で「カバー回数」は1970年代まではかなりハイ・アベレージに得点を伸ばしていることが分かります。
また、昭和の楽曲が「デジタル」や「YouTube再生数」で苦戦するのは当然なのですが、だからこそ、そこで点数を計上している楽曲は、令和においても定着して人気を博していることを意味しています。
① セールス(青色)
昭和30年代の「公称」の値は、かなりインパクトのある値が伝わっており、200・300万枚という楽曲もそれなりにあります。そういう楽曲の中でレコ大を掴んだのが『いつでも夢を』です。
『TSUNAMI』と並び250万超のポイントを計上してる大ヒット曲ですよね。
その後、昭和50年代に入るとセールス面がミリオンを超えてきます。1975年の「シクラメンのかほり」以降、下限50万で展開しますが、1983年の「矢切の渡し」の後は、EPレコードの衰退の影響を受け、伸び悩み期に入ります。
② カバー(橙色)
カバー数は昭和の時代を通じ押し並べて高く、平均42アーティストにカバーされています。むしろ、こうした中において、
9回:1988年・パラダイス銀河/光GENJI
4回:1964年・愛と死をみつめて/青山和子
3回:1966年・霧氷/橋幸夫
こういった楽曲たちは、むしろ例外です。それにそこそこ有名な曲ですし。逆に、上位で見ますと、
82回:1976年・北の宿から/都はるみ
79回:1983年・矢切の渡し/細川たかし(原曲:ちあきなおみ)
75回:1975年・シクラメンのかほり/布施明
73回:1961年・君恋し/フランク永井(原曲:二村定一)
68回:1972年・喝采/ちあきなおみ
などはレコード大賞の受賞後も多くのアーティストにカバーされています。
③ デジタル(灰色)
昭和のレコード大賞受賞曲は、流石に「デジタル配信」には滅法弱く、殆どの曲が「RIAJ(日本レコード協会)」の認定を受けていません。
唯一、認定を受けているのが、1981年の「ルビーの指環/寺尾聰」です。「ザ・ベストテン」などでの“連続1位”記録の印象が強い同曲ですが、満遍なく得点を重ねており、幅広い支持を長く受けていることが窺えます。
④ 再生数(黄色)
ほとんど「公式」が機能していない昭和のヒット曲のYouTubeですが、そうした中で再生回数が回っているものは「長く愛されているスタンダード曲」という傾向が見受けられます。
1965年「柔」/美空ひばり
1972年「喝采」/ちあきなおみ
1973年「夜空」/五木ひろし
1974年「襟裳岬」/森進一
1977年「勝手にしやがれ」/沢田研二
1981年「ルビーの指環」/寺尾聰
1985年「ミ・アモーレ〔Meu amor e…〕」/中森明菜
こういった所は、例えば1,000万回再生を突破しているなど、そこそこの得点を計上しています。(2021/11の作成時点:喝采は該当動画が非表示?)
3.合計ptにみる「レコード大賞」の趨勢
ではここで、4要素の合計ptを補記し、時系列に並べてみましょう。それがこちらです。※点線は5回の移動平均(↓)
この表から、端的に言えば、平均100万を下回るのは最後(1984~1988年)のみです。時折、凹む楽曲もありますが、5回平均では何とか100万を維持しています。
EPレコードの売上の落ち込みが目立つ1980年代後半を除くと、累計100万ptを下回ったのは、
1966年「霧氷」/橋幸夫
1968年「天使の誘惑」/黛ジュン
1969年「いいじゃないの幸せならば」/佐良直美
1973年「夜空」/五木ひろし
の4曲のみです。半数以上が100万を下回っている平成の楽曲たちに比べるとかなりのハイアベレージっぷりです。
加えて、第8回(1966年)には、売上で劣っていた「霧氷」が、加山雄三の「君といつまでも」を抑えて大賞に輝くなど、この頃は売上のみならず歌唱法なども審査していたことが窺えます。
また、第9回(1969年)も、森進一の「港町ブルース」を1票差で佐良直美が制したとも伝わっており、賞レースとしても見応えがありました。(故にヒットパワーが多少劣るからといって、レコード大賞自体が劣勢に陥っている訳ではない点が重要。)
【まとめ】
もちろん当時も、レーベルの忖度や勢力図なども一定程度はあったでしょうが、ノミネート楽曲たちもハイレベルな中での争いであり、あくまで最後のひと押し程度だったのではないでしょうか。
数年に1回、ヒット力にやや劣る楽曲が大賞を取ることがあっても、基本的には「その年の大ヒット曲が大賞に選ばれる」という基本中の基本を抑えた上で賞レースとして機能していたからこそ、その時代は「レコード大賞」が権威としてあり続けられたのだと思います。
では、平成・令和の同様の記事もお楽しみ下さいませ!(↓)