日本のシャープペンシルの歴史6(製造メーカーの発展1)
はじめに
前回は、関東大震災によりシャープペンシルの製造を断念せざるを得ないメーカーの事を紹介しました。しかし、この震災に耐えたシャープペンシルメーカーもありました。また、震災後に新しくシャープペンシルを製造し始めるメーカーも出てきて、更に日本にシャープペンシルが広がっていきました。今回は震災前からシャープペンシルを製造し始め、震災後も製造し続けていたメーカーの事を紹介していきたいと思います。
震災後も発展した製造メーカー
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起こりましたが、震災後の「日本文具新聞」にも自社の安否を報告しつつ、広告を出している製造メーカーがありました。カノエ萬年鉛筆(森田製作所)、ネオシャープペンシル(司武川製作所)、プラムシャープ鉛筆(中田製作所)など、震災後も無事で、シャープペンシルの出荷が可能なことを宣伝していました。
・カノエ萬年鉛筆
カノエ萬年鉛筆の製造メーカーである「森田金属製作所」は、大正、昭和とシャープペンシルを製造してきた有名な老舗メーカーです。
”萬年鉛筆”という呼び名は、シャープペンシルという名前が広まる以前は、一部使われていたようですが、シャープペンシルという名前が浸透した後はほとんど使われておらず、この森田金属製作所しかこの名前を使っていなかったようです。
創立の歴史など詳しいことはわかりませんが、20年くらい前に骨董市を巡っていた際、あるお店の店主からカノエのシャープペンシルの紹介文を頂きました。
その資料によると、創始者である「森田圓次郎」が1912年(明治45年or大正元年)に創業し、金属製シャープペンシルの製造を始めたようです。
また、この”カノエ”というブランド名は、輸出第一号が「庚」の年に
製造されたことから、この名前が付いたとされています。
1920年(大正9年)9月の「日本文具新聞」に”カノエ印”として、広告が掲載されています。この広告が出された1920年は「庚」年のため、少なくともこの年に初めて「カノエ」というブランド名でペンシルが販売されたようです。(庚年は10年に一回、西暦の10の倍数の年のため)
現在の墨田区辺りにあった【森田金属製作所】ですが、震災後1ヶ月も経たないうちに「日本文具新聞」に広告を掲載していました。
この後もカノエ萬年鉛筆は大正末から昭和にかけ、戦前戦後共に輸出を含め大きく発展していきました。1935年(昭和10年)頃には最盛期を迎え、年間900万本も世界各国に輸出したそうです。戦後の物資の無いころは軍需工場から大砲の薬きょうを払下げてもらい、それをプレスにかけて、戦前からのデザインであった菱形シャープペンシルの製造を開始したそうです。
・ネオシャープペンシル
ネオシャープペンシルの製造メーカーである「司武川製作所」は昭和初期までシャープペンシルを製造してきたメーカーです。
1922年(大正11年)7月の「日本文具新聞」に広告が掲載されたのが最初で、同年10月の「官報」にも広告が掲載されました。
関東大震災直前の1923年(大正12年)7月には新製品として学生用「カルメン」シャープペンシルを発売しました。このモデルは震災後もバリエーションを増やし販売し続けました。
この後もネオシャープペンシルは製造され、昭和に入ると2色シャープペンシルの製造もし始めました。
・プラムシャープ鉛筆
プラムシャープ鉛筆の製造メーカーである「中田製作所」は、大正、昭和初期とシャープペンシルを製造してきた老舗メーカーです。
創始者である「中田清三郎」が1906年(明治39年)に創業しました。今所有している資料の中で、初めてシャープペンシルが広告に掲載されたのは1915年(大正4年)3月の「文具新聞」になります。当時はまだ”シャープペンシル”とは呼ばれておらず、主に”繰出鉛筆”と呼ばれていました。
1921年(大正10年)頃は”ステッキ型”、”帽子型”、”洋傘型”、”動物型”、”木ネジ型”、”竹型”などの繰出鉛筆を製造したり、エボナイト製シャープ鉛筆を製造し始めました。
震災後は1ヶ月後の10月に発行された「日本文具新聞」に広告が掲載されていました。
この後もプラム繰出鉛筆は製造され、昭和に入るとセルロイド軸や、2色シャープ鉛筆の製造もし始めました。
おわりに
今回は関東大震災以前からシャープペンシルを製造していたメーカーの中で、震災後もシャープペンシルを製造し続け、昭和初期に迎える第二次シャープペンシルブームの火付け役となるメーカーを紹介しました。更に震災後に新しくシャープペンシルを製造し始めるメーカーも加わり、シャープペンシルが日本独自の進化を遂げていくことになります。