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“予測不可能性”にクリエイターはどう立ち向かうのか、という話

DXというスローガンがビジネスシーンに浸透して久しい。マグニフィセント7と称される米国テック企業の躍進は止まらず、AI時代の寵児たるエヌビディアの株価は2024年5月28日に最高値1,158USドルを突破した。2014年から、じつに200倍以上である。来るところまで、来ちまった。ARMや台湾積体電路製造(TSMC)もそれに続き、2024年現在、AIやビッグデータの活用への市場の期待は最高潮に達している。生成AIやAIによる市場予測こそが21世紀ビジネスの趨勢を決定づける――それはいまや、ひとつの信仰のようでさえある。

ただ、筆者はそこまで楽天的には考えていないのだ。生成AIによるクリエイティブの品質は一線級とはとてもいえないし、ビッグデータを活用することでマーケットの精緻な予測ができるかというと、おそらく期待ほどの成果にはならないだろう。現実世界は将棋やチェスで最善手を導き出すほど単純ではない。結局、AIなど補助的なものにしかならないのではないか。

こうした感覚は、筆者と同じ世代のビジネスパーソンであれば、多少なり共感してくれるはずだ。

というのも、筆者の幼少期にもコンピューターによる計算がすべてを解決するというたぐいの一大幻想が流行したことがある。それを受けて、少年マンガでもデータを駆使したインテリキャラが大量に登場した。「キン肉マン」に登場する“ファイティング・コンピューター”ウォーズマン。「幽幽白書」のドクター・イチガキ。「キャプテン」における金成中の眼鏡マネージャー。「鉄鍋のジャン」に登場する河原裕司などなどなど――それらはたいてい主人公側の“データにない行動”によって敗北するという、噛ませ犬扱いになっている。

現実はデータどおりにならない――こうしたマンガでの描写のされ方は物語として痛快であり、フォーマットとしてくり返されるのはむべなるかなだ。ただ、奇しくも現実世界においても、しばしば同様の結果になっていることは、興味深い符号といえるだろう。


1)カオス理論

読者諸兄であれば、二十世紀最後の大発見といわれるカオス理論をご存知であろう。さんざんSF映画で擦られた「北京で蝶々が羽ばたけば、ニューヨークで雨が降る」というフレーズで有名なバタフライエフェクトのアレである。

コンピューターによる気象予測という試みは歴史が古い。第二次世界大戦後の1955年、米国気象局がIBM701を導入し、4年後の1959年、日本の気象庁でもIBM704を導入、数値予報を開始した。コンピューターの発展は、気象予測の発展そのものである。

気象予測の仕組み自体は単純なもので、観測した気象データをもとに流体力学に則って動きを予想する、というものだ。ただ、データ入力時の微差が指数関数的に増大していくため、長時間後の状態予測は近似的にも不可能になる。これがカオス理論でいう初期値鋭敏性である。データさえ揃えば天候の予測はできるという牧歌的な考えは、カオス理論によって打ち砕かれた。スパコンが登場して以降も、同問題は解決に至っていない。


2)ランダムウォーク理論

1602年の「オランダ東インド会社」設立以後、株の値動きについては膨大な研究が為されてきた。統計データをもとに株価の変動を予測できれば巨万の富を得られるわけだから、研究者たちのモチベーションもそれこそ死に物狂いだったに違いない。

結果、ファンダメンタルズ分析やテクニカル分析などさまざまな分析手法が確立されたものの、現代の主流の考え方としては、過去のトレンドやデータを参照しても「株価が上がるか下がるか、その変動は予測できない」と結論づけられている。これがランダムウォーク理論である。

ランダムウォーク理論では、プロの機関投資家が如何に熟慮してポートフォリオを組んだとしても、目隠しした猿に新聞の相場欄めがけてダーツを投げさせ命中した銘柄と運用成果はほぼ変わらない、といわれる。かの“投資の神様”ウォーレン・バフェットも同様の見解を示しており、個人投資家にインデックス投資を勧めていることは、有名な話である。


3)バイアスとヴァライアンスのジレンマ

経営学の分野でも、市場の予測不可能性について同じように言われている。

認知心理学者ゲルド・ギゲレンザーによれば「論理的思考よりヒューリスティック・直感こそ素早い意思決定と正確な未来予測を可能にする」という。

マーケットに対する予測エラー度はバイアス(bias)とヴァライアンス(variane)によって変動する。バイアスは観測者の主観であり、ヴァライアンスは過去の経験や情報収集により得られた変数が将来の予測にどれだけ"使えないか"の程度を指す。

情報変数を増やせば主観バイアスは減らせるが、そのぶんヴァライアンスも増えるため、予測エラー度はかえって高まる。

つまり、不確実性の高い世界では直感は熟慮にまさるのである。これが経営学にいうバイアスとヴァライアンスのジレンマだ。

それを裏づけるエピソードとして、孫正義氏がアリババ創業者のジャック・マー氏に直感だけで20億円を投資したことは有名な話である。孫正義氏はそのとき、事業計画書もろくに読んでいなかったという。

経営学つながりでいえばピーター・ドラッカーの言説も示唆深い。

ドラッカーもまた、著書のなかで定量的なデータ分析より定性的な問題に重きを置いている。ここで例に挙げられるのが、エドセルのエピソードである。

エドセルはフォード社が膨大な定量的データをもとに設計し1957年に発売した、当時最新鋭の大衆車だ。商業的な大成功が期待されたが、損益分岐点の半分もみたすことなく発売中止に終わっている。

よく挙げられる反省点としては、定量的なデータが集まる頃にはすでに市場が変化しており、実際の状況を反映していない――というものである。エドセルはマーケティングの失敗例として、しばしば引き合いに出される。※もちろんそんなものは後づけの解釈に過ぎないし、当時の設計者やマーケターが責めを負うべき話でないことは申し添えておく。

いかがだろうか。少年マンガに描かれたことは、単なる絵空事ではない。データ偏重の結果、奇しくも現実社会でも同じ失敗が起こっていたのである!!!


予測できない未来のなかで

AIやビッグデータで競馬を予測する。そういわれると非常に胡散臭い話になるのに、ビジネスならば正確に予測できるとだれしもが考えるのはなぜだろう? 当然ながら、競馬よりもよほど予測は困難な筈だ。

だれも未来は予測できない。身も蓋もないが、それが大前提なのだ。

では、どうすればいいか。

愚直に手を動かす。

プリミティブだが、それ以外の対処があろうか?

冗談や警句を弄しているのではない。

成果を2倍にしたいならば、単純に施策を2倍にすればいい。それで足りなければ、3倍にすればよかろう。手を動かした結果、課題が生まれ、それらは日々改善されていく。

効率的に小利口にやろうとするから行き詰まるのだ。未来が予測不可能である以上、問題とすべきは試行回数なのである。

やってみなけりゃわからねえなら、成果が出るまでやるんだよ

プロ野球選手だって、打率は3割あれば合格だという。言い換えれば、7打席を空振りすることでしか、3回のヒットは打てないのだ。なのになぜ、凡人が確実な成功を望むのか。横着すな。

近道はない。魔法もない。

一所懸命にやる。必死でやる。ただ一心に、いいものを作る。

いまぼくらのまわりにあるすべては、偉大な先人たちのそうしたハードワークから生まれたのだ。そのコンピューターも、スマホも、電気自動車も、挑戦者が費やした膨大なエネルギーと失敗の結果として、そこにあるのだ。

それ以外の方法で生まれた優れた成果物を、ぼくらはひとつだって知らないし、今後も知ることはないだろう。

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