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優しい人になりたい

最近の自分は常々、
優しくないなぁ と思います。

最近というか 大学生になってからかな
人に優しくできなくなってきました

正直な話、私は「優しさ」というものをすごく大事なものだと思っていて、
「人に優しくすること」「常に優しさを胸に抱くこと」は
日常生活における自分の目標であり、ずっと覚えておきたい、
どんなときでも守りたい、自分との約束のようなものでした。

きっかけはある本を読んだことで、長くなるので簡潔に書きますが、
「人に優しくするってすごいことなんだ。」
「優しさは大事だ。」
優しさは、その人の強さだ。
と感じ、それ以来、私はガラスの靴で有名なお姫様のように(シンデレラね)
座右の銘は「勇気と優しさを忘れない
でした(これガチ)。

中学高校は、自ら決めたその信条を守り抜き、主に友人関係において
「人に優しくすること」を実践していました。
優しい、ってすごく抽象的だから、人によって優しくするってことがどんなことかはそれぞれ違うと思うんですけど、私の場合だとたとえば、
悪口・陰口は言わない、相手の気持ちを汲むよう努力する、自分の立場が悪くなろうとも誰かを仲間外れにしない、自分のためだけに卑怯なことをしない、自分がやられたら嫌なことは相手にもしない、相手の話をよく聞く、相手の表情をよく見る、相手が言ってほしい言葉はなにか察するようにする、正しさよりも優しさを優先する、怪我した人にすぐに駆け寄る、仲間の場を取り持つ、なるべく全員が納得できる道がないか探すことに尽力する、などなど…..

改めて自分で書くと恥ずかしいな(笑)
てか「こんなん優しさか?当たり前のことじゃね??」みたいに思われたらもっと恥ずかしいわ(笑) あくまで私の考えなのでね(笑)
思いつく限り書いてみたんですけど、つまり自分が優しさを持つ上で 特に気にしていたことは、
自分がされて嫌なことはしない」
ということでした。

もし自分がこうされたらどう思うかな、というのをすぐに考えて、
もし自分だったら助けてほしい と思えばその人を助けたり、
もし自分だったらこう言ってほしい と思えばそのような言葉をかけたり。
ひょっとしたら自分の考えが間違っていたり、感じ方が違うために正解の行動がとれていなかったこともあったと思う、いや絶対にあった。
考え方は人それぞれだし、自分がしてほしいことが相手のしてほしいこととは限らない。
でも、そういうときでも、私はしっかり考える過程をもって行動に移していたので、当てはまることが多かったし、自分の行動に自信を持てたし、
間違っていた場合でも、あとから素直に反省ができたり、次はこうしよう!とすぐに切り替えられたりしていました。

高校を卒業するまでは、自分は人に優しくできている、人に優しくすることを大事にできている、という自信があった、自負があった。



ところがどっこい、近年の私は、人に優しくできなくなってきたなぁと
感じています。
詳しくいうと、自分がされて嫌だな と思うこともしてしまったり、
助けを求めているだろう人を見て見ぬふりしたり、
相手の言いたいことをわかっていながら、わからないふりをしたり。

もっとひどくなると、
自分の持ち物を少しの間だけでも勝手に使われて 腹が立ったり、
真面目に掃除をしない人に嫌味を言ってしまったり、
面倒だなと思うことはイヤホンをして 聞こえないふりをしたり、

他にも、いろいろあります。
本当に書いていて情けなくなってくるけど、今の私は、自分を優先することが最も大事になり、人の都合よりも自分の都合が気になるようになり、
見て見ぬふりが嫌いなのに自分も気の向くままに見て見ぬふりをするようになりました。最低だね。

まじで書いてて涙が出てきたんだけど、本当に自分は情けなくも、
自分が一番やられたら嫌だなと思うような人間の行動を、自らとっているな、と思います。
いじわるすることなんて大っ嫌いだった、見て見ぬふりも大っ嫌い、卑怯な奴は軽蔑するほど嫌いだったし、自分の都合のために人を傷つけたり無視したり押しのけたりすることが本当に嫌いだった。

でも、今の自分は、かつての自分が「ありえない」と思うほど嫌っていた人物像に近く、そしてその事実が数年続いており、続いていることにも気づいていながら自分を変えようとしなかった、自分の都合しか考えられなくてそのまま突き進んできてしまったのだな、と思います。

あー泣けてきた、(笑)



先日、私がこのことについてちゃんと考え直そう、と思わされるような出来事がありました。
詳しくは書けませんが、人の不注意に苛立ち、少し強めに注意をしたところ、その人の体調が悪かったためにおきた不注意だったことをあとから知って、それならば言わなければ良かった、体調が悪いなら仕方なかったのになぜ自分はそんな物言いをしてしまったのか、と後悔したようなことがありました。
すごく些細なことだったのですが、その些細なことが過去にもあり、それが積み重なっていたせいで、私はその人の不注意がすごく気に障ってしまい、
なにか言ってやりたくて仕方なくなり、心のままに行動したところ、言わなくても良かった、言わなければ良かった、と思うような事態になったということです。
今思えば、私の言い方は意地の悪いものであり、過去の私が最も嫌うような皮肉的で、遠回しに嫌味を言うような、そういった口調でした。
その人の体調不良を知って「あ、そうだったんだ….」と思ったとき、意地悪いことを言ってしまった後悔と、うしろめたさと、自分はなんて優しくないんだ、という思いが瞬間的に頭に浮かび、そのせいでさらにこの出来事は 私の大きな失敗として脳に植え付けられるような記憶になりました。
そもそも優しい気持ちがあればその人の不注意を自分がカバーしてあげるぐらいのことができたはずだった、私もときどき体調を崩すので、体調が悪いことのしんどさをよく知っている、それなのになんであんなことを言ってしまったんだろう、もし体調不良を知っていたのなら、あんなことは言わなかった、でも、言わなければもっとモヤモヤしていた、だから結局自分はどうしたらよかったのだろう、という風に感じました。

なんだろう、色々注意したり、人にネガティブなことを伝えるのって、パワーがいるじゃないですか。なるべく角が立たないように、とか、荒波立てないようにとか。
一方で、そういうパワーを使うぐらいだったら、もう言わずに自分の中に溜めこもう、って場合もあるじゃないですか。
相手によっては、頑張って伝えたとしても聞いてもらえなかったり理解してもらえなかったりするから、それだったらもう諦めて、自分が我慢することを選ぶ、という選択をする場面もあるじゃないですか。

以前の私であったら、その人がなぜそんな不注意をしてしまったのか考え、察し、きっとなにか事情があったのだろうと考え、自分が犠牲になるけれどそれはそれでその人を責めずにいられるならいいや、と考えていたでしょう。
相手の様子を見て、相手がなにを考えているかを自分なりに考えて、相手を信じ、相手を肯定し、その上で自分はどうするかを考えていたと思います。
衝動的になにかを言ったりやったりすることはせず、まず観察し、よく考えて、その上で誰も傷つけないように、荒波を立てないように、そういう風に行動していたんじゃないかなと思います。

いまの私は、衝動的で、攻撃的で、自分の気持ちと損得ばかりを優先する、しかも自動的に瞬間的にそのように振舞ってしまっている。

そして、あとで後悔をする。

今のわたしは、そんな人間なんです。



人に、優しくできるようになりたい、

かつてできていたように、相手の気持ちを考え、相手のために身を削り、そのことに喜びや充実感を感じられていたあの頃に戻りたい。
どうして、わたしは優しくできなくなってしまったのか、
どうして、こんな意地の悪い人間になってしまったのか、
なぜ、自分のしたことに後悔してばかりな毎日になってしまったのか、

すべてが悲しいし、自分にがっかりするし、自分がとても残念な人間だなと思います。



結局のところ、今の自分には、余裕がないのかな と感じています。

自分のことにいっぱいいっぱいで、毎日なにか物足りなさを感じたり、他の人に比べてすごく遅れているように感じたり、人より劣っているからもっと何倍ものスピードで前進しなければと感じたり、
そのために体力を溜めなければいけないから その体力を他の人に使うのがもったいないと感じたり。

これらのことは私が普段無意識に思っていることなのだと思います。自分に自信がなく、自分は劣っていると感じる、だから余裕がない。自分の力や時間を人のために使おうと思えない。

これが私がいま、人に優しくできていない理由の一つなのかなと思います。



あと、これは自分だけの問題ではないんじゃないか、とも感じます。

先ほど書いたように、高校生までの自分は人に優しくすることがある意味好きだったし、人に優しくできることが自分の気持ちを良くすることにつながっていた。
それは、周りの反応のおかげだったのかなと今では思います。つまり、自分が人に優しくしたとき、その人は自分に感謝してくれたり、それを見ていた他の人が自分を評価してくれたりした。人に優しくするのは、自分が自分のためにやりたいことで、自分を満足させるためにやっている行動であるにしろ、どこかで「認めてほしい」「お礼を言われたい」という気持ちがあって、今まではその欲までが自然と満たされていたので、だから私は私自身が好む人物像を演じられて、そのことに満足でき、より「優しさ」というものの大事さを感じていたのだと思います。

結局見返りかよ!って話なんですけど、今の私が人に優しくできなくなった理由のひとつが、この周りの対応の変化だと思うんですね、以前は自分の優しさが認められていたのに、今の環境では認められない、むしろ今は「優しい人」ではなく「面倒なことをやってくれる都合のいい人」になってしまっていて、そのことに私自身耐えられなくなって、今の状況になってしまったのかなと思いました。

良い環境から悪い環境にいくと、良い環境が当たり前のように感じてしまい、周りへの期待をもったまま悪い環境で過ごすことになってしまう。

他人に過度な期待をしてしまった、これが私が人に優しくできなくなった大きな理由なのかなと書いていて思いました。

人は人、自分は自分。それぞれ違う考え方を持っているのだから、人を変えようとするのではなく、自分を変えるべきだ、だから、他人に期待をしない、他人に期待するところから直していかないとな、と思います。


なんやらかんやら色々書いたけれど、結局優しくできなくて苦しいのは自分なんですよね、今の状況では優しくして苦しくなることも多いんですけど。やらなきゃいけないけど誰もやりたがらないような仕事をやったり、細かいところまで注意を配って身を削ってでも他人を助けたり、そういうのって今の環境だとなんだか「そういう雑用とかをやりたくてやってる人」みたいに見られるんですよね、それってほんとに癪。やりたくてやってる訳じゃ、ないのよ、やりたくないけど誰かがやらなきゃ回らないから気づいてしまった以上私がやってるんでしょうが。それを見て見ぬふりした人たちがたくさんいて、そういう人たちに都合のいいように扱われてることが我慢ならんのよ。

あと、私も急に優しくできなくなったわけではなくて、最初は自分の信条に従ってました。環境が変わっても、与えた優しさは自分に返ってくるものだと信じていたので、人に優しくすることを心がけて、意識して、努力していたと思います。でもね、そのわたしの気遣いだったり親切が、なんか都合のいいように使われてるなって思うことが多くなったんです。誰も捨てないゴミ、誰も片づけないもの、誰かがやらなきゃいけないこと。そういうものを率先してやっていたのはそれが皆にとって過ごしやすい環境を作ることにつながると思ったから。自分が一番最初に気が付いたようだし、私の時間や体力を削ってでもやろう、って思ったんです、でも実際はそうじゃなくて。皆気づいてるけどやらないんですよね、誰かがやってくれるからいいや、とか面倒だからいいやとか。それで誰かがやってくれるのを待ってるんですよ、自分もやる義務があるのに、やらなくてもいいかもしれないけど、やらなくても世界はまわるかもしれないけど。そこには誰かが犠牲になっていることを、忘れないでほしいです。優しい誰かがやってくれたらそれでいい、なんて思わないでください。ちょっとは、荷物を持つぐらいしてください。
優しくなくなってしまった私自身も、自分で書いたこれらのことを 忘れないようにしたいものです。

すっごい心の狭いこと言ってるように思われるかもしれないな(笑)  でもこういうことが何回も積み重なると嫌になってくるもんなんですよ、笑
みーんな見て見ぬふりして、気づいてるのに知らんぷりして、おめーも関係するんじゃないのかよ、おめーもやる義務があるんじゃないのかよ????

正直そう思います。



最後愚痴っぽくなっちゃったけど、人は変えられない、変えられるのは自分だけなので、とにかく他人に期待しない。優しくするかしないかは、優しくしたことも優しくしなかったことも全部自分に返ってくるのだから、そのことをよく肝に命じた上で、行動しようと思います。

あと、いずれにしてもよく考えてから行動すること。突発的、衝動的になにかを言ったりやったりすることで後悔することが多すぎる。まぁ世の中どんどん色んなものが進んでいくから、ゆっくり考えてる暇なんてないんだけどね、考えさせてほしいときほど早い決断や行動が必要になって、結局考え半ばで行動するとあとで後悔するんですよね、これはどうしたらいいものか。


人に優しくしたい、それは私の目標であり、ある意味エゴだとも思います。結局自分のためにやってるんです。だから、もう優しくしたことも、優しくできなかったことも全部自分の荷物になるので、

もうやってしまったことは取り返しがつかないし背負うしかないので、

それをよく覚えておきながら、人に優しくするかどうか、決めたいと思います。





おわり!!!!



2022.11.30 0:18

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