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寛永7年(1630年)10月5日、築城の名手として知られる藤堂高虎が亡くなりました

寛永7年(1630年)10月5日、築城の名手として知られる藤堂高虎が亡くなりました。
七度主君を変えた戦国の転職王としても知られますね。
と言っても無闇やたらと去ったりするのではなく、豊臣秀長にはその最期まで従い、一旦は隠居。
その後、秀吉→家康に仕えてます。武士は2君にまみえず、が忠義のイメージ、実際は全く違い江戸時代以降です。優秀な武将はイイ待遇の主君へと売り込むのです。その筆頭が高虎、身長190cmと言われ2人力3人力を武器に戦働きで頭角を現し、しかも治世にも抜かりの無い智将。主君のオーダーを忠実にこなし抜群の結果を出す。家康は秀吉政権の瓦解は外様大名への権限剥奪をしなかった事と分析。大老老中は譜代で固める。しかし家康「徳川に大事あった時は高虎を最も頼りとせよ」秀忠に言い聞かせていた例外中の例外だった #光る君へ #大河ドラマ

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