『手の倫理』
伊藤 亜紗 (著)
お待たせいたしました。お待たせしすぎたかもしれません。久々の読書感想文です。
大好きな伊藤亜紗さんの本を見つけて読みましたら今回も素敵でした。
おすすめしたい方は、対人関係に悩む方、BtoCの仕事をされている方。ただ、ぜひみなさんに読んでほしいくらいです。
今回は自分の備忘録としてなので、文章は雑です。すみません。
「さわる」と「ふれる」の違い
この本は、タイトルの通り、手にまつわる倫理を説いているのですが、主にさわるとふれるの違いについてです。
それぞれの言葉の使い方について考えてみると、なんとなく「さわる」よりも「ふれる」のほうが優しい感じがすでにしておりますけれども、後半にかけてそこにある倫理についてを考えていきます。
五感の中での触覚の立場
歴史を紐解いていくと、五感のなかでは視覚が圧倒的No1で、触覚は低い立場です。確かに、アートは絵画など視覚で楽しむものがほとんどです。
コロナウィルスによる行動自粛や技術の進化により、それはさらに進行しているとも感じます。SNSはほとんどが画面を通して見て楽しむものになっていますし、コミュニケーションもオンラインで行われることによって、ほとんどが視覚情報を感じるものになっているような気もしています。
もし自分が失明してしまったら、私は世界を何で感じるのかと考えると、次点は圧倒的に聴覚でしょうか。味覚と嗅覚は感じるものが限られてしまうことを考えると、触覚もかなり重要な意味を持ち始めます。
私自身パーソナルスペースは広いタイプなので、もし、さわる/ふれる、さわられる/ふれられるを必須としなければならない生活となったときに、正直怖いと感じると思います。目で見て大丈夫って思っているところが多かったりします。めまいと貧血で目の前が見えなくなることが時々ありますが、そのときはできるだけ動かないようにしてしまいます。最後に見えていた情報だけが頼りです。
安心と信頼の違い
この本は少々タブーなことにも切り込んで書かれている内容ではありますので、詳細はぜひ読んでいただければと思いますが、結局のところ、さわる/ふれるの違いは安心と信頼の違いだと説かれています。
安心は、人から与えられて自分を守るもの。→さわる
信頼は、自分から与えて自分が傷つく覚悟をするもの。→ふれる
最近の世の中、安心を求める人たちが増えていて、信頼って減っているなと感じました。すごく乱暴に書いてしまうと、自分が安心すればいいやが横行しているような気がします。いや、私の体験も踏まえて書くと、信頼するのが怖いから、安心だけを求めるようになってしまったというような状況なのかもしれません。
触覚から得られる情報量はとても多くて強力です。そして、(これはどの感覚にも言えるけれども)より力が伴えば一方的に伝えることも可能です。だからこそ、社会的に距離を取らなくてはいけなくなってしまいましたが、アフターコロナではとても大切に扱わなければいけないものになりそうです。
こころにはふれるって使いますものね。
最後に
私は今、さわっているのでしょうか、ふれているのでしょうか。
あなたは今、さわっているのでしょうか、ふれているのでしょうか。
本当の信頼って時間をかけた積み重ねのうち成り立つものでもあると思うのです。傷つく覚悟と書くとそれはそれは重いもののようにも感じますが、ふれるという言葉自体は軽くさわるという意味です。それはまるで家族のような軽い付き合いができるということほど、じつは信頼関係が必要ということなのかもしれません。間違っても、失敗しても、がんばりすぎなくてもよい関係には、顕在化していない傷つける勇気も必要です。
母は強いというのは、子どもを産み育てることによって、信頼が伴うふれるを経験しているからなのかもしれません。
それもLove。。これもLove。。ですかね。愛する技術。
信じる力愛の力、それを発揮できる時間(傷ついたり傷つけられたりすることも含む)があれば、先には信頼関係があり、お互いにより気持ちの良い自然なふれ方ができる。それってなんだか幸せ!
以上、自分用備忘録的読書感想文でした。