歯医者を10年サボった女の決意
「このくらいだったら樹脂でいいですね」
―― 医師の言葉に、私は静かに息を呑んだ。私の口内から、最後の金属が失われていく。
それは、夏の太陽が容赦なく照りつける、ある日の午後。溶けかけた飴に絡め取られるように、私の唯一の銀歯はあっけなく旅立っていったのだ。
最後に歯医者に行った、あの日から10年。私は、歯医者という存在を、意識の遥か彼方に追いやっていた。正確には、追いやることができていたと思い込んでいただけかもしれない。
「まさか、こんな形で再会することになるとは……」
10年の時を超えて、私は再び歯医者の椅子に座っていた。白く清潔感溢れる診察室は、まるでSF映画に出てくる宇宙船のようだ。パーソナルスペースを確保した広々とした空間、最新式の機器の数々。10年前の記憶にある、あの古びた歯医者とはまるで違う。
問診表に「痛みのない治療をお望みですか?」と書かれている。
「歯医者で嫌な思いをしたことがありますか?」とも。
なるほど、もはや犬も歩けば歯医者に当たる、歯医者戦国時代。客を維持するために歯医者側も必死なのだろう。
私は特に「痛みのない治療」など求めていない。というか歯医者の痛みがどんなものだったかもはや思い出せない。堂々とその質問をスルーした。
「YeKu様、お待たせしました。今回はどうなさいましたか?」
柔和な笑顔が眩しい、若手イケメン風の医師。その爽やかさに、私はますます自分が場違いな場所に迷い込んでしまったような気がしてくる。
歯医者ってマスクで素顔を隠せないから嫌なんだよなぁ……。
今更ながら、どんよりした気持ちがこみ上げてくる。
「あ、あの……銀歯が取れちゃって……」
「ああ、なるほど。それは大変でしたね。拝見しますね」
そう言って、医師は慣れた手つきで私の口の中を覗き込む。冷たい金属の器具が歯の表面をなぞっていく度に、10年前の記憶がフラッシュバックする。あの頃は、こんなにも洗練されていなかった。もっと、こう、生々しくて、痛々しくて……ああ、思い出したくもない。
「んー、特に問題なさそうですね。歯周病もありませんし、治療が必要な虫歯も見当たりません。銀歯である必要もなさそうなので、とりあえず樹脂で埋めちゃいますね」
「……え?」
予想外の言葉に、私は思わず聞き返す。
(10年も歯医者に行ってないんですけど……)
とは言えない。聞かれてもいないことを口にしたくない。
医師は手早く器用な手つきで私の歯に樹脂をかぶせ、ピカピカにしてくれた。治療が終わると、彼は今後について話してくれる。
「とても綺麗な歯ですよ。ただ、歯周病予防のために、3ヶ月に一度くらいはクリーニングに来てくださいね」
医師は、まるで「良いお天気ですね」と言うように、当然のことのようにそう言った。
歯周病予防って……10年放置しても平気なのに?
私は、そう思いながらも、一生懸命に説明してくれる医師に気を遣い、半笑いで頷くより他なかった。
世界には、歯医者が必要な人種といらない人種がいるのだと思う。10年間、虫歯の一つも作らず、歯周病もなく、銀歯が取れる以外のトラブルもない。私は、紛れもなく後者なのだ。
「……定期的に通って、歯を綺麗にすることに、どんな意味があるっていうんだろう?」
診察室を後にする私の背中に、医師の言葉が虚しく響く。
私は、定期的に歯医者へ通い、高価な歯磨き粉やデンタルフロスを買い求める人々の気持ちが実感できない。彼らにとって、それは健康な歯を保つための投資であり、自己管理の証なのだろう。
しかし、私にはそれが、まるで宗教儀式のように思えてならないのだ。
毎日何回も歯磨きしている訳じゃないし、取り立ててフロスで一生懸命に汚れを取っているわけでもない。歯石は溜まってきたら市販の器具で適当に取っている。唾液の分泌量とか元の細菌叢とかいろんな理由があるんだろうが、とにかく、私は虫歯や歯周病にならない。クリーニングが無意味だとは言わないが、だがしかし。
10年ぶりに歯医者を訪れたことで、私は自分自身の異質さを再認識した。
私は、この世界で、私のルールで生きていく。歯医者が必要ない人生を。たとえ、それが誰にも理解されなくても――。
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