永遠に生きることはありか?なしか?あるいは鬼滅かSAOか
各種ネタバレ含みます。
『鬼滅の刃』(以下、鬼滅)は面白い作品だと思うし、それは売上からみてもファンの反応からしても明らかなんだけれど、私には引っかかる部分があって、今回はそのことについて考えていきたいです。
それは「永遠に生きることはありか?なしか?」という問題。
鬼滅の態度はやや複雑です。まず煉獄さん含めて柱の何人もが鬼にならない選択をします。それは終わりがあるから美しいという死生観があるからなんですね。けれど同時に鬼殺隊を指揮した産屋敷は人の思いこそが永遠なんだと説くのです。
つまり、肉体が滅んだとしても平和を願う人の想いは永遠なんだと。これが鬼滅での基本的な永遠に対する態度です。けれども、これを覆す存在がいる。それが禰豆子です。彼女は鬼(=永遠)でありながら、人を喰わず平和を脅かしません。人を喰わずに永遠を手にした存在を鬼殺隊はいわば実験的に許容します。ここから他者の迷惑にならない範囲での永遠は許容した、と解釈もできますが、結果的には無残が倒されることによって禰豆子は鬼(=永遠)ではなくなるので、やはり永遠を肯定していないと考えます。
私が引っかかりを覚えたのはこの永遠に対する態度です。無残が永遠に生きたいのは究極的には死への恐怖があるからです。そして生物はみな生存本能がありますよね。だから本能よりも倫理的あるいは文化的な価値観を優先しろ、という訴えは必然的に負けてしまうと思うのです。言い換えれば、他者に迷惑にならない範囲での永遠は否定しきれていない。無残が許されないのは人を喰うからであって永遠に生きるからではないわけです。この生存本能を抑制しなければいけない理由に倫理を持ってきている点において、鬼滅は永遠の否定に失敗しています。
先に私の立場を書いておきます。私の立場は永遠を否定する立場です。永遠の命を求めるのは生存本能があるから必然なのに、なぜ否定されるのか。この問いを解くためのヒントは永遠の達成の仕方にあると思っています。
「永遠に生きることはありか?なしか?」を考える手がかりとして『ソードアート・オンライン』(以下、SAO)のアリシゼーション編をあげます。というのもSAOは現実的に人が永遠の命を得る可能性について言及しているからです。
さて永遠について考えて来ましたが、そもそも永遠の命になる方法がないのなら、この議論自体に意味がありません。今すぐにとはいきませんが、科学技術が更に進化していけば、永遠に生きることも可能かもしれない。そんな風に思える案としては以下の2つがあります。
・遺伝子情報を操作してある程度以上は老いないようにする
・意識だけをコンピュータに移す
前者の遺伝子操作の案は村上龍の『歌うクジラ』という小説で言及されていました。要するに人間の肉体を永遠に生きられるようにしてしまおう、という話ですね。ただ、こちらについては人体実験をしないと技術が更新されていかないので、実現する見込みは低いと思われます。
後者の意識をコンピュータに移す案は、SAOでも言及されていました。SAOの用語を解説すると長くなってしまうので、話を簡単にしてみます。要するに脳にはその人の魂の核となる部分があって、それをコピーすれば意識をコンピュータに移築できる。ただ、人は永遠を生きるように作られていないので、定期的に記憶を消去して調整する必要がある、というものでした。
こちらについては人体実験的要素は低いですし、実際に脳とコンピュータをつなげるような実験は現在されています。例えばイーロン・マスクの実験など。ですので、今回の記事では意識をコンピュータに移す案を採用して考えていきます。
さて、それではSAOは永遠の命を肯定していたのか、それとも否定していたのか。永遠の是非について明確な回答があるわけではありませんが、状況証拠的には肯定していると考えます。理由としてはすでに永遠に近い存在になったキャラクターが存在するからです。分かりやすいのは茅場晶彦ですね。彼は自らの手で脳をスキャンしてネット上に意識を移しました。まさしく電脳化です。また、キリトとアスナもアリシゼーションの世界に囚われて、200年という長い時間を過ごし、その後記憶を消して現実に帰還しています。ただ、他者の魂を再利用して永遠を得ようとしたアドミニストレータは鬼滅の無残と同じく他者を犠牲にする部分で否定されていました。
電脳化について描かれている作品はいくらでも挙げられるでしょう。その中でも示唆的だったのは、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』(以下、ダリフラ)です。
ダリフラのストーリー自体はそこまで関係ないので、該当部分だけを説明します。第10話で大人が「幸福」を直接摂取していることが描かれるんですね。ゲームや映像を享受するのではなく、直接脳に「幸福」を送り込む。そうすることでダリフラの大人たちは人と関係を持たずに生きている。ダリフラではまだ肉体があるけれども、肉体を持たずに電脳化した人間ならもっとずっと長く「幸福」を直接摂取するのではないか、と思います。
というのも、あなたは『快楽回路』という本を知っているでしょうか?
この本のなかで「全ての動物は、自己保存と快楽を得るという強い動機に基づいた行動を選択している。例えば、食事、慈善活動、ギャンブル、ゲーム、セックスなどは、全て脳内で分泌される快楽物質と、受容体の制御が関連している」と説明します。平たく言えば、人間の行動は快楽を得るための行動である、という話です。では、もし行動を介さなくても直接快楽物質を脳内に送り込めるとしたら?肉体のケアも必要なければ、生活を維持するための労働も必要ない。そんな電脳化した人間には、もはや行動それ自体が不要になると思いませんか?
実際、この本のなかでひどいうつに悩まされた患者の脳に電極を刺して、スイッチが押されれば快感を得られるようにする実験を行っています。その結果、患者は健康や家族を考えずスイッチを押すことに依存してしまいました。ラットを使った実験では、食事も睡眠も性欲も関係なく、死ぬまでスイッチを押し続けたそうです。ここから何が考えられるでしょう。
電脳化すれば健康も家族も関係ない。食事や睡眠を取らなくても、一生スイッチを押し続けられるわけです。果たしてこれは生きているといえるのか?
この記事では永遠を倫理的に否定しても生存本能のほうが上なのだから、鬼滅の主張は失敗していると書きました。そして、SAOで将来的に電脳化がありうること。そして、電脳化すればダリフラの大人のように「幸福」を摂取するだけの存在に成り下がる可能性を考えました。
人によっては電脳化して快楽を永遠に得続けられるなんて最高じゃないか、と思う人もいるかもしれません。ですが、これにはオチがあって、この快楽は実は「もう少しで快楽を得られそうだ」という感覚が最も強いらしいのです。なので、実際には快楽を得られそうだ、という状態を永遠に続けることになります。これは一番残酷な拷問なのではないでしょうか。
『快楽回路』のなかで人間の行動は快楽を得るための行動だとありました。よく考えれば、私たちの生活自体も快楽を得るために行動し続けている点で、快楽スイッチを押す電脳化した存在と変わらないでしょう。
いやいや、私は学校や職場に行きたくないよ、だから快楽を得るために行動する存在じゃないよ、という人もいるかもしれない。しかし、それは学校や職場に行くほうが人生全体の快楽の総量は大きいはずだ、という判断がどこかであったと思うのですね。もしくは、マゾの人であれば嫌なことをしたほうが快楽になります。
そう考えると、快楽を得るために行動し続ける私と、快楽スイッチを押す電脳化した存在とは、同じだと思うのです。私たちは快楽を得続けようと行動し続ける。そして「もう少しで快感を得られそうだ」と、どこまでも満足しない。どこまでも満足しないから行動し続けられるわけです。
だから、私はどこかで強制的にスイッチを切って欲しい。
永遠に生きても、短命で死んでも、幸福それ自体を手に入れられるわけじゃないなら、どこかで自分ではない何者かの力で終わったほうが諦められる。永遠に生き続けて、快楽に溺れ続ける地獄には行きたくありません。そうなってしまえば、諦めきれずにそれこそ永遠に彷徨い続けるだろうから。
「永遠に生きることはありか?なしか?」
あなたはどう思ったでしょうか。この記事では電脳化による永遠を考えたので、違う方法ではもっと違う結論になるかもしれません。
これを読んだ人の何かのヒントになれば幸いです。
お付き合いありがとうございました。
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