【雑記】月が綺麗な夜なので
最近、疲れている。
先日、手のひらにコンディショナーを出し、ためらうことなく顔に塗った。
またあるときは、醤油皿と間違えてごはんに勢いよく醤油をぶっかけた。
あのときの夫の変な生き物を見るような目はいまだに忘れられない。
疲れていると、いつもは目に入らないようなテレビのCMが気になったりする。
第3のビール、サントリーの金麦のCM。
柳楽優弥が1人用の卓上鍋で串揚げを揚げながら、金麦をお供に月見に興じている。
実に風情がある飲み方だ。
れんこんがかりっと香ばしい衣をまとい、見ているだけで美味しい油の匂いが漂ってきそうである。
そういえば、普通ビールのCMはやれキリッとしたのど越しだの、爽やかな苦味だのと商品そのものの味を全面的に押し出したものが多いけど、金麦は「おいしい食べものと一緒に」感が強い気がする。
そんなことをぼんやり考えながらCMを見ていると、無性に串揚げが食べたくなり、その日の夜は馴染みの串揚げ屋に行こうということになった。
串揚げ屋に着くと、わたしは早速、海老・もち・うずらの串を注文した。
残念ながら育児中のためアルコールを嗜むことはできず、とうもろこしのひげ茶をお供に据えることになったが、頭の中ではわたしは完全に柳楽優弥だった。
串が揚がるのを待つ間、娘は冷やしトマトを注文した。
最近大人のまねをして自分で注文できるようになったので、どこか得意げである。
程なくして、串とトマトが同時に運ばれてきた。
まずは海老だ。
2度漬け禁止のソースにざぶんと串をくぐらせ、口いっぱいにほおばると、じゅわっとソースが染み込んだ衣がはがれて中から大ぶりな身が現れた。
海老のぶりんぶりんした食感と甘辛いソースの味が口内に広がったところを、ひげ茶ですっきりと洗い流す。
これぞ至福。
これで月でも見えようものなら完璧なのだが、あいにくここは店の中、しかも店長のご厚意で最も出入り口から遠く、最もトイレに近い席である。
やむを得ず月見は脳内の柳楽優弥に任せ、わたしはそのままもちとうずらの串を楽しむことにした。
次は何を頼もうかとメニューに目を走らせていると、「ふえ〜ん」とか細い泣き声が耳に入った。ふとそちらに目をやると、夫が膝の上に娘を乗せ、がっちりホールドされている。
聞けば、箸が全く進まない娘に夫が食べるよう促したところ、眠くなってしまったと泣き出したのだという。
テーブルを見ると、冷やしトマトが9割方運ばれてきたときと同じ状態で皿の上に乗っている。
しかも、いつの間に頼んだのか刺身の盛り合わせ1皿、板わさ(さび抜き)1皿もテーブルの上に鎮座している。こちらは完全に手つかずだ。
マジか。
このタイミングで寝るのか。
まったく子どもの行動というのは予測しづらいものである。
とはいえ、ここには夫もいる。2人で分担して食べれば、まあ問題はないだろう。
どっちが何をどのくらい食べるかを相談しようと再度夫の方を見ると、あいかわらずしっかと娘にしがみつかれた体勢のまま、夫が口を開いた。
「ごめん、俺ももう腹いっぱい」
マジか。(2回目)
こうなったら予定変更、わたしはメニューを置き、ほぼ1個まるごとのトマトとほぼ板1枚分のかまぼこ、それから刺盛りの駆逐に乗り出した。
もはや柳楽優弥はどこかに消え、いつの間にかわたしはギャル曽根と化していた。
もちろん脳内の話である。
そうして完全に沈黙した娘を抱えながらちびちびと日本酒を嗜む夫を横目に、わたしはなんとかすべての敵を駆逐することに成功した。
会計を済ませて店の外に出ると、いつの間にか涼しい夜風が吹いていた。
串揚げを楽しむためにわざわざ店に来たのに、実際はトマトとかまぼこと刺身で腹いっぱいになっている。いや、美味しかったんだけどね?
なんともやるせない気持ちで駅までとぼとぼと歩いていると、目を覚ました娘がゆっくりと空を指さした。
「ママ見て、お月さまがいるよ」
その言葉で顔を上げると、たしかに頭の上にまん丸の月がぼんやりと浮かんでいた。
さっき食べたうずらの黄身のような月である。
おかげでさっきまで「しばらく子どもは連れて来れないかな」などとネガティブなことを考えていたが、今は「ちゃんと昼寝させて、万全のコンディションのときにまた来よう」という気持ちになっていた。
束の間の月見で癒やされながら、改札にスマホをかざす。パン、と開いたゲートを通ると、夫がまた変な生き物を見るような目でこちらを見ていることに気がついた。
「どうし……あ、」
最近、疲れている。
まったく関係ない路線に意気揚々と入場したわたしは、その場で大きくうなだれたのだった。
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