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「楽しく研究して」なんて聞かないで

明日から日本語学会だ。

オンライン開催だから気楽に参加できるけど,日常が入り込むのはちょっと大変で面倒なこともある。ちなみに明日は学会中に荷物が届く予定もある。

それでも学会に参加するのは発表するにせよしないにせよ基本的に楽しみなのは変わらない。ただ学会でちょっと思い出したことがある。

ある発表を聞いていたとき,ある調査の結果を報告しているのだけど違和感がすごかった。というのも私なら割合を使うところを実数で報告していたのだ。もちろん実数の方が良いとかそれでも構わないというケースはあるのだけど,理由が分からないので質疑の時間に聞いてみた。

するとその方は「実数の方が違いが出て説得的になるかと思ったからそうした」と答えた。

実数・割合でごまかすのなんて新聞とかウェブメディアがやることはあるけど,研究発表で目にするなんて僕は思ってもみなかった。これってつまり事実として効果があるとかこれこれが影響してるとか結果の真実性よりも自分の発表内容がそれっぽく見えるかどうかを優先したということだ。

僕が院生になってから25年ぐらい経っていて,(おそらく)心理学の流れからいわゆる実験的な手法が浸透してきて,序論・方法・結果・考察(IMRaD)の構成にするとか,数値を使ったときは仮説検定するとか(そして今は効果量の方が良いとかもある),まさに技術的なことや見せ方の面はとても進んだ。だけど,どこに謎があって研究するのかという問題意識を大事にするとか,そこに嘘をつかないなんてのは変わってないはずだと信じている。

僕の大学院の指導教員は飲み会で時折「みなさん,言語学を楽しんでますか?楽しく研究してください」というようなことを言う人だった(「た」だと他界してるみたいだけど,お元気です)。僕はこれを聞くたびにいつも「そりゃ論文を書くのは辛いにしても研究なんて楽しいに決まってるんだから,こんなこと聞かないでよ」ぐらいに思っていた。しかし,まさに「あなたは研究していて楽しいの?」と自分が聞きたくなるときが来たのだ。

もちろん「研究は仕事だから別に楽しくなくていい」というのもひとつの立場としてあるし,否定するつもりはない。だから上の出来事は「仕事での倫理」の問題としての側面も持つし,そちらのほうが大きいかなとも思う。でも,数値・割合みたいなレベルのごまかしが通じる分野だと発表者が思ってるならやっぱり僕は悲しいよ。

結果が出ないのは辛くて楽しくないかもしれない。僕だってそうやって発表してないものがないかと言えば嘘になるし。これってもっと研究業界一般で言えば,ネガティブな結果は評価されず世に出にくい出版バイアスがあるのだからしょうがないという擁護もできるかもしれない(そうか?)。

だけど,それでいいのか?

もっともこのように「楽しいのかな」と疑問に思わせる出来事があったからといって僕がどうこう変わることはない。明日からの学会でも粛々と疑問に思うことは質疑で聞くだけだ。だけど,やっぱり根っこでは研究は楽しいものだと思ってほしい。そのために僕ができることは,苦しくも楽しそうに研究する(そしてときにけっこうダサい)姿を見せていくぐらいなのかなと思う。

楽しく研究してます。それなりに大変だけど。

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