たっぷり息を吐くということ|「ということ。」第28回
丁寧に暮らしていそうとか何とか言われることもあるけれど、その実、辛抱と努力がまったく(本当にまったく)できない、大人になり損ねている側の人間だ。
とくに人生においてできないでいることは、練習。きれいな字を書く練習とか、仕事の場でうまく話す練習だとか、夫と今はまっている撃ち合いゲームのエイム練習とか。遡れば、親がフルートを習わせてくれた時、家での自主練習がすこしも習慣づかずに一年で辞めたこともある。
ここまで書いて思い出すのは、フルートの先生がよく「たっぷり」という言葉を使っていたことだ。「ここはもっと、たっぷり吹いて」。呼吸の深度のことを言っていたのだと思う。ただ、言われた通りに“たっぷり”吹くと、不思議に、楽器に慣れている人からすれば当然かもしれないけれど、私にとってはとても不思議なことに、奏でる音もなんだか“たっぷり”するのだった。おおきな動物が、その心臓の音に合わせて、ゆっくりゆっくり漂うように動くみたいに。余裕のあるおおらかさで、はしゃぐことも嘆くことも無いように。
この“たっぷり”の概念は、フルートを吹く技術よりもずっと今の私に残っている。普段から“たっぷり”過ごせているわけではもちろんなく、でも何か激しいことがあった時、自分を落ち着かせる言葉として。例えばたっぷりの水、海や川を見て心が凪ぐのも、そのせいなのかもしれない。
たっぷり息を、吸って、吐いて。気づけば呼吸が浅くなりがちな、私のお守りのような言葉なのだ。