しなやかな、
やすみの日にはだらけきって、しなくても困らないことはしない。けれどプライドだけは人一倍で、わたしの常識から外れる人やことに傷つけられたら、黙っていられない。わたしはそんな、怠惰で、窮屈な人間だった。
でも、気づいたら、結婚なんてまるで大人みたいなことをしていて、三十一というこの年齢は、二十代にあったみずみずしさから新鮮さをひっこ抜いて、それでもまださらさらとはしている水をたたえているふうだ。わたしはずっと、早く大人になりたかったし、これからはいつも年相応でありたい。
近ごろ、「いま、人生のステージが変わってきているな」と感じることが増えた。関わる人や、担うことや、やった方がいいことの、その内訳が変わってきたからだ。早く大人になりたかったわたしは、もうとっくに大人だ。なのに、いまいち実感がない。大人になるって、こんなもんなのだろうか。
なぜ実感がない? と考えてみれば、それはわたしが相変わらず、怠け者で短気だからだ。人の性質は変わらないのね、と思う。けれど、よくよく観察すれば、わたしはそれだけではなくなったことにも気づく。
怠けるけれども、素直な意思で怠けている。時間をつぶす罪悪感なんて塵もなく、心から気持ちよく怠ける。そうするために怠けないでおくべきものを選ぶ力をつけた、とも言う。先のことなんか考えていない。怠けないほうがかっこいいだろうな、と思うことを気取ってやるだけ。
すぐに相手を言い負かしたくなるのも変わらないが、最後に勝つための方便を使いこなせるようになった。これはまだ、ときどき上手くいかないこともあるのだけど。だれかの乱暴や愚行を、その勢いを借りていなす。いやな思いをそのままどこかに投げるのではなく、まるで粘土をこねるように、自分の手元で楽しいかたちに変えて、「はいどうぞ」とおだやかに渡すこと。
そこそこに、悪くなく、歳を重ねたなと思う。若輩者でもあるけれど。うれしいな、と思う。わたしは、わたしのことを気に入っている。
あれ、これ、と書いてみたけれど、ひとこと「しなやか」でありたいというのがぴったりかもしれない。わたしの枝は、まだ細くて、格好が悪く、天気が悪いと軋む日もある。それでもすこし放っておけば、ス、と伸び直すような。しなやかな枝になりたい。
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