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僕という人生を語ってみる(幼少期〜大学受験まで)

はじめに

初めての有料noteを書きます。値段とか分からんので適当につけました(笑)売れるのかこれ。

まずなんでこの記事を有料化したかというと、いつものnoteではちょっとずつ入れていたフェイク情報を今回はつまびらかにしているからです。

人によっては「てめー、いつものnoteとは違うことを書いてんじゃねーか」みたいなご意見があるかもしれません。それはすまん。許して〜。

もう一つは僕のパーソナルなところを書いてみたくなったんですが、流石にこれを全公開してしまうと下手すりゃ特定されるのを恐れてというところです。出身大学の母校名とか書いちゃってるしさ…

僕という人間の概要は以下の通りなので、もし詳細に興味がある方はこの記事を買ってくれたら嬉しいです。

テーマとしては小学生から大学生になるまでの僕の人生について語ってます。僕の人生にお金払ってまで興味あるやつなんているんか(笑)まあいいや、もう決めたからこれを書こう。

それでは早速僕という人生を書いていきます。目次はこんな感じ。ご興味がある方はぜひよろしくお願いします。計17000字です!


小学校〜中学校時代

家庭事情はそこまで特殊ではなかったが僕にとってはキツかった

幼少時に毒親とかDVをくらってたとかで精神病に苦しんでる方々の話をよく聞きます。そういう子供時代の酷い経験で人格形成が崩れてしまったみたいな。

ところがどっこい、僕はそういう家庭ではなかったです。ちょっと問題はあったにせよ、よくあるヤバめな家庭ではなかった。経済的には恵まれた方の、普通の家庭だったと思います。

家族一緒に普通に旅行行ったり、遊びにいったりの経験はありました。望んだわけじゃないけど塾にも行かせてもらいましたし、習い事もいくつかさせてもらった。

だからこそ、今の精神疾患を持つ自分にとっては原因がどこにあるかを考えるのが非常に難しい。間違いなく過去は精神疾患に影響はしているとは思うんですが、果たしてそれは仕事なのか、過去の自分なのか。それとも全部ひっくるめた何か?悩むことが多くあります。

家庭事情だけが問題だったならコトは簡単だったんですが、恐らく自分自身のキャパシティや性格をも関わってきてしまう難解な問題というのが今の僕自身の状況分析です。

ちなみに実家とは今もヨロシクやってるかというとそういうわけじゃなくて、実父・実母とは何十年も会っていません。

お互い連絡はしないし、するつもりもないです。彼らは僕の住所や電話番号さえ知らないです。恐らく、彼らも僕も、次に会うのはお互いのどちらかが死を分かつときでしょう。後悔などありません。



友達なんているはずがない

さて、本題に入ります。小学生の僕の話です。住んでいたのは兵庫県よりの大阪府箕面市。どこにでもある普通の公立の小学校に通ってました。

今までのnoteでも書いてきたんですが、物心がついたころには既に人見知りで、人目を気にするタイプでした。人付き合いが苦手で、友達は本当に0人。休み時間は自席で1人本を読んでるタイプでした。

図書館のあらゆる本を読んで、全校2位の貸し出し数として表彰されたぐらいです。どんだけ借りてるんだよ(笑)

休日は友達と一緒に遊びに行く相手がいないので、本を読むか、1人で何かをずっと何かを作ってた記憶があります。レゴやゾイド、あとはプラレールが好きで、親が時々買ってくれたおもちゃで1人で遊んでました。

将来の夢は電車の運転手でした。全然関係ないですけど、最近の電車への飛び込み事故情報とか聞いたら「運転手とか大変な仕事だな」と思ってます…。

親はゲームやマンガを買ってくれなかったし、テレビもあんまり見させてくれなかった家庭だったので、ちょっと厳しめ家庭環境だったかもしれません。

真面目に友達がいなさすぎて、小学校で「二人組を作ってください」という先生の掛け声が一番苦手でした。最終的に先生と一緒にペアを組んだことも数知れず。

別にいじめられてたわけじゃないし、クラスメイトとは最低限の会話はしていたとは思います。でも行き帰りの道は必ず1人だったし、誰かと深く話をした記憶は今思い返しても皆無です。多分、みんな僕に興味がなかった。空気と化してました。

なんで友達を作ることが出来なかったんだろう、と思い返すことがあります。根本的にまず自分に自信がなかったこと、そして自信のない自分を他人から否定されることへの恐怖があったのではないかと推測しています。

何の自信?と思うことでしょうが、これこそが僕の根本である「勉強」でした。



勉強のできないことが自己否定に繋がった

僕が自分自身の「自信」を形成する対象は「勉強」以外ありえませんでした。勉強が嫌いだったくせに、その根本がそれってどういうことって感じですよね。

そう。実はちょっとした嘘を僕は毎回noteに書いてました。

「僕は勉強ができません」と普段のnoteで言い続けています。厳密にいうと、少し違います。僕は「親が望む成績を取ることが出来ない」人間でした。小学生のときは基本的に100点以外認められなくて、それ以外だと怒られてました。普通に説教されて、ときには殴られました。

これが苦しくて、いつもテスト結果を持ち帰るときの足取りが重たかった記憶は今でも思い出されます。

ときには100点ではないテスト結果は95点だろうが90点だろうが、道端に捨てたり、駅のゴミ箱にビリビリに破って捨てたりしていました。それがバレて更に怒られたこともありました。

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