【とある本格派フェミニストの憂鬱8パス目】「自分の意思決定過程に割り込んでくる他者」としての外部性について
前回投稿でお伝えした「史上初の世界恐慌を契機にカール・マルクスとジョン・スチュワート・ミルとチャールス・ダーウィンが同時に指摘した事」というのは、ある意味…
経済学でいうところの「外部性」概念と深く関わってくるのです。
まさしく私の勝手な、とはいえそれなりに21世紀に入っても通用する部が厳選して抜き出されている様に見える要約「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会的圧力によって型抜きされた既製品に過ぎない」そのものですね。シグムント・フロイトいうところの「さよう、自由は人間を解放する。ただし自由にではない」。その一方でジョン・スチュワート・ミルはコンドルセ侯爵同様に大数の法則を信じる数学者の立場から「人類がその潜在的可能性を引き出すには挑戦数の最大化、すなわち職業差別や人種差別や女性差別の撤廃が不可欠である」と述べたのです。
ジョン・スチュワート・ミルのこの言葉、いざ実践に移そうとすると大変恐ろしい側面を備えていたりします。例えばイスラエル軍。数多くの実戦を経るうちに「男女混合部隊は、男女別の部隊より男性が女性を庇って死傷する確率が高い」と気付きます。男女混合部隊を無くし、男性は男性だけの部隊で、女性は女性だけの部隊で運用する様になったらこの偏りはなくなったそうです。大昔テレビから得た知識なのでこの話自体の信憑性は怪しく、事実だったとしても一時期ごく一部の部隊で遂行されただけかもしれません、それでも「可能性の最大化」とは、そういう冷徹な判断を必要とする側面も備えている事実自体は動かないのです。
そういえば「女子校育ちの女子は、共学育ちの男性と異なり男性に依存する経験を持たない分、自立心や率先力を備えやすい環境にある」という話もある様です。これも男女平等の在り方の一つ? ただしもちろんそこには「だが本当にそれは人間の可能性の最大化か?」なる疑問の付帯がさり、結局は外部性問題に戻ってきてしまう訳です。
それではカール・マルクスが「経済学批判」を、ジョン・スチュワート・ミルが「自由論」を発表した同年1859年に「種の起源」を発表したチャールズ・ダーウィンの場合はどうでしょう? ある意味彼が一番厄介な置き土産を残していったといえましょう。そう、人間に当て嵌めるのなら「男性にとっては女性が、女性にとっては男性が「外部」となる」性淘汰説がそれという訳です。
路上観察結果とSNS上の意味分布をつなぐ何か
という事で話は私が11月になってから個人的に取り組んでるささやかなプロジェクトの話に入ります。発端はこの話。
これを再体験するには相応に膨大なデータストリームを観察下に置く必要があり、とりあえず目をつけたのが仕事の一部となっている路上観察から得られる情報とTwitterのタイムラインを流れてくる(エロ)画像生成AI絵師の投稿データの突き合わせ。正直、その試み自体は観測プロトコル樹立そのものが目的であり対象は何でもよかったのですが今年は5月のコロナ自粛明けを受けてファッション・トレンドの大変遷がありました。外国人観光客が戻り、修学旅行が復活した結果としての観察対象急増もあって、そういうのを記録に残しておくといい記録になるかもしれないと思ったのです。それ以前に画像生成AIの技術は日進月歩なので1年後、いやそれどころか数ヶ月後には別の景色が広がってるかもしれません。実際tumbr全盛期(2010年代前半)もそんな感じで、ちゃんと記録を残しておかなかった事を後悔している次第。
そしてなんと考察の結果、ここでいう(エロ)画像生成AI絵師集団と(着飾って行楽地に向かう)若い女性集団が、用法を全く異にしながら判断に用いる数学的構造を共有している可能性が浮上してきました。あまりに多くの仮説を含んでいるので、ちゃんとした形で全貌を発表出来るのはまだまだ先の事になりそうですが…
まぁこの数学的構造自体は以下の様な局面でも現れたりします。男女関係の無限次元性に対応する模様?
こういう事に取り組んでるので、中々長文が発表出来ないという中間報告です。そんな感じで以下続報…