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【インターネットと政治】「世間を規定する測度範囲は、一般人の目には捉え切れない様な緩やかな測度で変遷を続けている」?

今回は以下のメモの掘り下げから出発します。

「都知事選が可視化した恐るべき票田」?

暇空茜氏の立候補理由については、最初期のインタビューから割とはっきりと明言されています。そう「ネット票が石丸伸二候補に集中するのを防ぎたかった」なんですよね。

このコンセプトに沿うなら「11万票の獲得は、この意図の成功を意味するか?」についての検証が必要不可欠となってきます。

そして確かに「報道機関にほとんど黙殺され、地上戦(泥臭いドブ板選挙活動)抜きで勝ち取った11万票」と考えれば、その意義はそれなりに大きいといえましょう。

まるでウェストフェリア条約締結(1648年)まで(大国側の宗教的政治的都合により)スイスとオランダが国として存在しない事になっていた歴史を 彷彿とさせます。そこまで無茶を推し通してきた代償は大きく、主権国家体制への移行に失敗したスペインは以降三流国家に転落し、新生ローマ帝国に至っては事実上解体の始まりとなったのでした。

とはいえ、今回の都知事選ではさらに大きな「恐るべき票田」が可視化される展開もあったのです。

改めて前回投稿時点のChatGPTへの質問を読み返してみましょう。

インターネットの普及が選挙運動にもたらす悪い効果

1. フェイクニュースや誤情報の拡散: インターネット上での情報は拡散力が強いため、フェイクニュースや誤情報も瞬く間に広がる可能性があります。これにより、有権者が誤った情報に基づいて投票行動を行うリスクがあります。

2. 過激な言論や中傷の増加: 匿名性の高いインターネット上では、候補者やその支持者に対する過激な言論や中傷が増える傾向があります。これにより、選挙運動がネガティブな方向に進む可能性があります。

3. デジタルデバイドの影響: インターネットにアクセスできる人とできない人の間で情報格差が生じることがあります。特に高齢者や経済的に恵まれない層ではインターネットの利用が難しい場合があり、その結果、情報が届きにくくなることがあります。

ChatGPTに質問「インターネットの普及が選挙運動に与える良い効果と悪い効果を3個ずつ挙げてください(今回は悪い効果のみ抽出)」

かかる動向は、過去投稿の以下の様な話と関係してきます。

日本の学生運動全盛期にも「陥落後のバリケード内には世に公表されるのが憚られる様な酷い落書きが無数に残され、見かねて突入した機動隊員が消した事もある」なんて話がありました。ところがこの誰もがネットワークで結ばれる現代社会においては、そうした「本来なら誰にも届くべきではなかった独り言」が容赦無く外界に発信され、それぞれのSNS単位でレスバトルが始まってしまうのです。

上掲「【とある本格派フェミニストの憂鬱2パス目】米国で始まった既存活動家とSNS社会の分断。そもそもSNS社会とは?」

当然、当時の学生運動家自身が恣意的に編纂した「落書き集」からはこういう様相は浮かび上がってきません。

その一方で、当時は当時なりにそれを察知する方法がありました。コロンビア大学紛争を見舞った同様の混沌を、混沌のまま写し取った「いちご白書」ジェームズ・クネン「いちご白書(The Strawberry Statement,執筆1966年~1968年)」の様な名著が書店に並んでいたのです。

なお「いちご白書」翻訳版刊行は映画連動企画。エリック・シーガル原作映画「ある愛の詩(Love Story,1970年)」における原作翻訳連動と並んで、70年代から80年代前半を制した「角川春樹プロデューサーの手になるメディアミックス戦略」の最初期の成功例に数えられていたりします。

角川春樹の麻薬所持による逮捕(1993年)によって「歴史の掃き溜め」送りとなった過去史の一部…

1970年代、角川書店の社長になったころの角川さんが、出版業界にもたらしたインパクトおよび混乱は、およそいろんなところで語られているので端折りますが、直木賞に与えた影響もまた甚大なものがありました。昭和49年/1974年に創刊した大型文芸誌『野性時代』から、創刊わずか2年目の昭和50年/1975年に早くも初の候補作(赤江瀑「金環食の影飾り」)が選ばれると、一気に直木賞の候補ラインナップに欠かせない出版社の地位を占めることになります。

派手な宣伝を仕掛けての売上は文庫のほうで稼ぐいっぽう、活きのいい新人・中堅作家に積極的に発表の場を与え、付き合いを深めていく。次世代の出版への布石を怠らなかったこの姿勢が、直木賞(の予選)と相性がよかったのもうなずけます。角川書店の作品が直木賞を受賞して、いわゆる目立ったベストセラーとなるのは、第86回(昭和57年/1982年・下半期)のつかこうへい『蒲田行進曲』が最初と言っていいでしょうけど、売れる影にはオモテに現われない地道な努力があることは、もちろん角川書店も例外ではありません。

しかし、あまりに度の外れた奇矯な出版戦略が、いろいろメディアで持て囃される状況を、苦々しく思う人が出てきたのもたしかです。

とくにその急先鋒を自認していたのが、文春砲、つまりは『週刊文春』編集部で、「小誌はこれまで一貫して、角川春樹社長のいかがわしさ、経営手腕への疑問を取り上げてきた」(『週刊文春』平成5年/1993年9月9日号)などと見栄を切っています。平成5年/1993年7月9日、角川書店写真室の池田岳史さんがコカイン密輸入の現行犯で逮捕、8月には池田さんの供述をもとに、芸能プロ「北斗塾」役員の坂元恭子さんも自宅に大麻を所持していたところを警察に取り押さえられますが、その池田さんをとくに可愛がり、また坂元さんと10年近く同棲生活を送っていたという、当時角川書店社長だった春樹さんも、じつは麻薬とズブズブの生活を送っているらしいぞ! と大きく報じたのが、『週刊文春』9月2日号「独走スクープ 角川春樹社長コカイン常用の重大疑惑」です。

じっさい、8月26日には角川本社が家宅捜索を受け、28日深夜、ついに角川さんが麻薬取締法違反で逮捕。そらみろ一時代を築いたヒーローが憐れな犯罪者に堕ちた、となればマスメディアが一斉に叩く側にまわる、というのはあまりに見慣れた光景ですが、根を掘り葉を掘り角川さんの私生活、女性遍歴、兄弟ゲンカなどなど、犬も食わない話題まで含めて徹底的に批判の対象となりました。

そんなことは直木賞とは何の関係もないじゃないか。たしかにそう思わないでもありません。ただ、1970年代から80年代、あれだけ断続的にしばしば直木賞の候補になっていた角川の作品が、ぱたりと選ばれなくなるのが、第100回(昭和63年/1988年・下半期)から。以降、第114回(平成7年/1995年・下半期)まで7年に及ぶ「角川外し」の時代が到来します。偶然かもしれませんけど、直木賞=文春が、麻薬問題を抱えた角川から一歩距離をおいた、と見えるのは否めません。

上掲「平成5年/1993年・角川書店の社長だったときに麻薬取締法違反で逮捕された角川春樹」

しばらく前まで、いわゆる「1980年代的軽薄さ」と、それを終わらせたバブル崩壊(1990年頃)と関連付けてネガティブに語られてきた出来事。隣国韓国における「大宇財閥強制取り潰し」に関連して、21世紀初頭にははこんな説が流布したものです。「角川春樹は(書籍と映画を連動させる)メディアミックス映画の(テレビ局が仕掛けてきた)トレンディ・ドラマへの敗北も、バブル崩壊も認めない暴走機関車だった。だから密告なる非常手段を用いてでも止めるしかなかったのである」。

  • そして当時の成功体験が今度はテレビ業界の進歩を拘束する足枷に…まさしくマックス・ウェーバーいうところの「鉄の檻」理論、すなわち「全身を鎧う甲殻は、当面の間身の周りの危険から守ってくれる防具として機能するものの、最終的には形成された時点で概ね成長限界が設定された自動処刑装置として働く」を地でいく展開に。

実際、逮捕された年においても自ら脚本と監督を手掛けた「REX恐竜物語(1993年)」をマイケル・クライトン原作スピルバーグ監督映画「ジュラシック・パーク(Jurassic Park,1993年)」と同等のグレードの作品と国内宣伝する事に成功し、逮捕と同時に上映が打ち切りとなり、たちまちそういう映画が存在した事自体が世間から忘れられる奇怪な展開を迎えたのでした。そう、まさしく世界金融危機(1997年)発生以降もイケイケ路線を放棄せず韓国経済をさらなる危険にさらした大宇財閥が金大中大統領の「勅命」なる非常手段によって、たちまち跡形もなく解体されてしまったのと同じコースという…

こうした「騙されやすかった当時の日本国民」が産み落としてしまったもう一つの鬼子が「そういう日本国民を侮って選挙に失敗し、勝手に絶望してテロに走った」オウム真理教だったという次第。

とある大学の先輩に「クメール・ルージュ擁護で本田勝一に失望しました」と話したら一喝された事があります。

「馬鹿かお前は‼︎ そんなだから一歩たりとも人間的に進歩出来ないんだ。ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」を読め。そこに、アメリカ独立戦争やフランス革命が実際に何をしたのかなんて関係ない。それが起こった事実そのものが人類を救済したと書いてある」。

「ホブズボーム「匪賊の社会史」を読め。義賊は例え実際には強盗と強姦と殺人しか遂行しなくても、ただ存在するだけで大衆を救済するとある。クメール・ルージュだってフランス革命をアジアで再現しようと試みただけで偉大で、それだけで人類全体を俯瞰的に救済した。その結果生じた微細な被害など、未来の人間はそのうち忘れてしまう。偉大なるフランス革命自体についてそうだった様に」。

当時の流行でオウム真理教に入信して大学中退。その後の事は分かりません。こんなとんでもない行動原理を賞賛し続けるには相応の正義への確信が必要で、マルクス主義ではいささか役不足と考える様になったのかもしれません。

上掲【とある本格派フェミニストの憂鬱2パス目】「米国で始まった既存活動家とSNS社会の分断。そもそもSNS社会とは?」

まさにそれは宮崎駿がCHAGE&ASKA「On Your Mark」のMV(1995年)において顕現させた魔術的リアリズムの世界…

思い出すのが以前触れた「選挙運動の手伝い」において、自称「元学生運動家」から聞いた「唯心論的マルクス主義者」達の話。

  • 学生運動の実際闘争場面は、しばしば「マルクスなんて一行も読んでない我々の方が、むしろマルクス主義の真理を理解している」と豪語する反知性主義者の猪突猛進によって支えられていた。

  • 運動の理論面を主導していた側からすれば思惑通り動かない彼らの様な存在は時として忌々しく映る状況もあったが、幸いにしてネットがまだまだそんなに普及してなかった時代でもあったので、彼らのその立場からの主張もまた関係者外にダダ漏れする事はなかった。

こうした人々は流行歌が「神田川(1973年)」を経て「いちご白書をもう一度(1975年)」に推移するうち観測可能範囲外に消え去った訳ですが、もちろんだからといって彼らの様な存在が消滅した訳ではなかった筈なのです。

ところで20世紀も後半に入り、時代遅れとなったマルクス主義が急進力を失うと次第に「緑の党」に代表される様な「新しい社会運動」に軸足を移す様になりました。

1970年代から世界各国で台頭してきた、エコロジー、脱炭素、反原発、反核、軍縮、反戦、人種差別撤廃、脱物質主義、脱消費社会、脱資本主義、多文化主義、消費者保護、参加民主主義(草の根民主主義も参照)、フェミニズム、社会的弱者の人権等々をテーマにした「新しい社会運動」の流れで結成が進んだ政治勢力である。出身者の多くが市民活動家や環境保護に関心の高い市民であり、国によっては更に社会民主党、共産党、中央党等の既成政党から離党した政治家が新党としての『緑の党』に合流した他、左派系の労働運動や民主化運動の活動家も加わっている。

上掲Wikipedia「緑の党」

だが、この様に「各生活者の自然な直感をあえて全面肯定する政治」には、思わぬ欠陥があったという訳です。そう、次第にカール・マンハイム(Karl Mannheim,1893年~1947年)が「保守主義的思想(Das konservative Denken,1927年)」の中で指摘した「(フランス革命とナポレオン戦争の時代以降、欧州政治で主流となった)ある側面が進歩主義的で、残りの部分が保守的である様な人々の意見の擦り合わせによる合議体制」を「(過去の栄光ばかり有り難がる)伝統主義」に退行させようとする動きを適切にフィルタリング出来なくなってきたという次第。

「郷原」は、「狂簡(一途に天下国家を夢中になって論ずるいわゆる書生論議の若者。「狂」は物事に夢中になる状態、「簡」は隙だらけの脇の甘い粗雑な状態)」とは対照的に、年寄り臭く分別顔に意見する円満が売り物で、しかし、何事も変わったことや新しいことに反対する、どこの組織にも必ずいるいわゆる常識人をいう。「郷」とは村里のことで、「原」とは「愿」の意味で謹厳謹直の超真面目人間のことである。ちょっと考えると、おやっ、孔子やその一派いわゆる儒教を説く人々こそそうなのではないのかと思われ勝ちなのだが、意外にも孔子は、この「郷原」が大嫌いで、

「郷原徳之賊也(郷原は徳の賊なり)」[論語:陽貨]
[訳]円満な常識人は道徳を損なう者で害になる。

とまで言い切っている。

孔子よりも二百年くらい後の人で、孔子の教えを祖述した孟子に至るともっと徹底していて、さらに激しく「郷原」を非難し攻撃している。

「閹然媚於世也者是郷原也(閹然として世に媚ぶる者は是郷原なり)」
[孟子:尽心下]
[訳]自分の本心を覆い隠してひたすら世間に媚び諂う者は郷原なのだ。

この攻撃の激しさは尋常ではない。まるで近親憎悪のように、忌み嫌っているのである。恐らく自分たちの説く教えが誤解されて正しく伝わらないのは、このような「郷原」の存在が邪魔するからだというのであろう。そこで、有名な次の言葉を孔子は述べ、孟子はこれを引用している。

悪似而非者。(似て非なる者を悪む)[論語:陽貨]
[訳]似てはいるが本物とは違う偽者を憎む。

悪紫之奪朱也(紫の朱を奪うを悪む)」[孟子:尽心下]
紫色(中間色)が朱色(正色)の地位を奪ってしまうのを憎む。

この「似而非」という用語は日本語となって「エセ」と読んで「エセ紳士」とか「エセ学者」とかとしてよく使われている。

上掲岡本幹輝「狂簡と郷原」

世にいう「似非リベラル」「似非フェミニズム」概念の大源流ですね。フランス料理が、何でもデミグラスソースやホワイトソースで味付けする様になって行き詰まった時、フォン・ド・ボーなどソースの原材料に立ち返って新たな組み合わせ方を模索する事によって現代に通用する多様性を取り戻した様に「マルクス主義」が時代遅れになったら、思い切ってカール・マルクス(Karl Marx,1818年~1883年)の残した原典に立ち返り、時代遅れとなった部分はバッサリ切り捨てて、その部分を現代なお通用する部分に差し替えてリニューアルすれば良いだけの筈なのですが、頭が硬直して伝統主義の弊害に完全に捕まってしまった現在のマルクス主義者達は、そうは考えられなかったという次第。そうやって彼らの進歩主義からの逸脱は始まってしまったという訳です。

「世間を規定する測度範囲は、一般人の目には捉え切れない様な緩やかな測度で変遷を続けている」?

こういった話が、思わぬ形で私が別シリーズで展開している「エロティズム文化史」と密接に関係してきます。

こうした観察分野において「当たり前の事」ほど、警戒して掛からねばなりません。例えば昨年シフォンドレイヤースカートの下にジーンズを履いた女性を見かけた時はあまりの奇異さにギョッとしたものですが、(馴染ませるための創意工夫もあって)以降観測例が順調に増え続け、今ではすっかり当たり前の事として受け入れるに至りました。そう「観測者側の視点」そのものが定点性を維持していないのです。

そもそも、それに気付けたのもたまたま(?)私が逐次メモを取り続けてきたからで、おそらく当事者たる女性も大半は特別に意識せず周囲に合わせて適応を続けてるだけとも見て取れます。そう「鉄の檻」とはいえ、その正体は固体とも液体ともつかないガラスの様なもので、一般人には認識出来ない様な緩慢な測度である準安定状態から別の準安定状態への変遷を続けているという次第。

上掲【第三世代フェミニズムの弾薬庫】「「雪原や雪原にいれば狼、日常風景の中にあれば犬」は、どこまで間違いなのか?」

私が一連の投稿の主題としてる「深層学習による世界の分布意味論的把握」なる概念における最大の障害がこれだったりします。そこまで明らかに出来た時点で以下続報…

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