【分布意味論時代の歩き方1パス目】「1859年認識革命」と「ビッグデータ革命」の思わぬ共通点は「世界を一つにした」事。
私は2020年代を「分布意味論(distributional semantics)の時代」と位置付けています。
既にこういう考え方も現れていますが…
なんだかChatGPTあたりが出力した様な優等生的文章みたいですね。そもそも「敵対的プロンプトへのセキュリティ」と簡単にいいますが、一体何から何を守ろうとしているのでしょうか? 実はこの問題、1848年革命以降産業革命と資本主義の導入が本格化し、世界中が鉄道と汽船によって結ばれた結果として史上初の世界恐慌(1857年)が勃発した時代にまで遡ります。これに端を発する欧州人の精神的動揺を受けて1859年、チャールズ・ダーウィンが「種の起源(On the Origin of Species)」を、ジョン・スチュワート・ミルが「自由論(On Liberty)」を、カール・マルクスが「経済学批判(Zur Kritik der Politischen Ökonomie)」を一斉に出版。
その前後において欧州人の認識が完全にパラダイムシフトを起こす事から、かかる歴史的流れを「1859年認識革命」あるいは「カール・マルクスが本当に関わった世界史的認識革命」と呼ぶ向きも。それとは別にクリミア戦争(1853年~1856年)を契機とする「統計学の母」ナイチンゲールの躍進が軍隊近代化や近代的都市計画着手の契機となった事から、当時を「統計革命黎明期」と位置付ける系譜もあったりします(そう、それ以前の時代には大数の法則はあっても正規分布認識は存在せず、そもそも分散の概念自体が存在しなかった‼︎)。そんなこんなで呼称自体は一定しないものの、多くの歴史観がこの時期に欧州人の価値観が激変したという認識自体は共有しているのです。
平均μ、分散$${σ^2>0}$$と置いた場合、
$${N(μ,σ^2)=\frac{1}{\sqrt{2πσ^2}}exp(-\frac{(x-μ)^2}{2σ^2})(x\in\mathbb{R})}$$
平均μ、分散$${σ^2>0}$$と置いた場合、
$${N(μ,σ^2)=\frac{1}{2}(1+erf \frac{x-μ}{\sqrt{2πσ^2}})}$$
なお誤差関数(erf= error function) $${erf(x)=\frac{1}{π}\int_0^xexp(-x^2)dt}$$
で、改めて浮上してくるのがジョン・スチュワート・ミルの言葉「文明発展に不可欠な個性と多様性と天才を国家権力が妨げるのが正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」のうち「他人に実害を与える」の部分。ここでどうしても「どこから先を如何なる基準で外れ値認定して切り捨てるか」問題や「見張りを誰が見張るか」問題などが浮上してきてしまうという次第。
特に最近は似非リベラルや似非フェミニストの類が上掲のジョン・スチュワート・ミルの言葉をひっくり返した「文明発展の為、正義は他人に実害を与える可能性のある如何なる個性も多様性も天才もその存続を認めない」なるスローガンを捏造し、これを伝家の宝刀の様に振り翳しながらあらゆる気に入らないものに襲いかかる傾向を露わにしています。「国家権力(似非フェミニストの場合は定義もあやふやな家父長制)こそ一刻も早く滅ぼすべき巨悪」と勝手に規定して自らをそれと戦う反権力と位置付けて勝手に自己陶酔し、その一方でそう振る舞う以上必ずついてまわる「自分自身の権力性」を否認すべく普遍的正義の概念を持ち出す…例えばそうした歴史の最初からあったのが「車(社会)との戦い」。
最近では遂に霊柩車や救急車を妨害する環境活動家まで現れました。
ヴィーガン過激派の考え方も基本構造は同じ。「誰かに実害を与える」の「誰か」の規定部分に根本的欠陥があるとしか思えません。
環境テロリストの振る舞いは最初からこんな感じでした。
映画「12モンキーズ(1995年)」で語られた「動物実験に反対する動物愛護団体が、動物を救う為に人類そのものを滅ぼす殺人ウィルスを世界中に散布する」未来がすぐそこに?
そもそも歴史上「誰かに実害を与える可能性のある個性や多様性や天才」に該当するのは一体何であり続けてきたのでしょうか。
①「1859年認識革命」は全体像を俯瞰すると史上初の国際恐慌到来を契機に欧州人が既存の価値観を疑い始めたのを契機として考え方にカンブリア爆発的多様性が生じ、そのうち妥当と思われる内容が既存価値観に追加されたり、時代遅れとなった部分を上書きした結果である。
大航海時代同様、産業革命時代を牽引したのもまた図でいう「カンブリア爆発的多様性を特徴とする怪しい人々」であった。その大半がただの詐欺師や大言壮語ばかりの理想主義者に過ぎず、ごく一部の「本物」だけが新時代の基礎固めに参画するが、誰が「本物」だったかについては随分と後世になってその時代全体が俯瞰可能となるまで分からない。
Captains of Industry
②こういう過程ならウィリアム・マクニール「ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797」にも記されている。
時はイタリア・ルネサンス期(14世紀-16世紀)。天文学や解剖学が飛躍的に発展したボローニャ大学やパドヴァ大学の教授や学生の間で広まった「科学実証主義(Scientific Positivism)の祖型」新アリストテレス主義(Neo Aristotelianism)、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えばどんな実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」という考え方。19世紀以降、国際的に倫理学の世界で用いられる様になった「新アリストテレス主義(同じくNeo Aristotelianismと呼ばれる)」とは全くの別物なので注意が必要。この時代のそれは、あくまで純粋に(イシラム文化圏やビザンティン帝国経由でギリシャ語版やヘブライ語版やアラビア語版という形で再流入した)ギリシャ古典の記述を実際の観測結果より敬う中世的権威主義への挑戦を意味したのである。
③残念ながら、それまでの世界の中心、すなわち地中海沿岸に割拠したビザンティン帝国やイスラム文化圏はこの「人類に必要な知識は既に古典に全て記されている」と考え、科学的探究心が抑圧される中世的権威主義を脱却する事が出来なかった(ある部分においては今でもそのまま)。ジョン・スチュワート・ミルいうところの「人類が潜在的に備える可能性の汲み上げ」を怠った文明は、必然的にそういう末路を迎える事になる
一方、欧州は大航海時代を経て「世界の中心」を地中海沿岸から大西洋沿岸に移し、数学の急速発展に支えられた精緻な航海図を片手に七つの海に乗り出した。一方、世界の中心が地中海沿岸だった時期には世界史に相応の足跡を残してきたイタリア諸国も、アラゴン王国も以降はあまり消息を聞かなくなっていく。
さらにその後、産業革命時代が到来。その当然の帰結として「1859年認識革命」が勃発したという訳である。そしてフランス革命とナポレオン戦争以降単独覇権状態を達成した大英帝国にフランス第二帝政が食い下がる。ノウハウをドイツ帝国や大日本帝国が模倣。そうするうちにやっと我々の見知った近代世界がその姿を現すも、実際にその「(国体を守るのに十分な火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う)主権国家間の国際協調体制」としての本質が露わになるのは第一次世界大戦(1914年~1918年)前後に「時代遅れの老大国」清朝(1636年~1912年)、ハプスブルグ君主国(1526年~1918年)、オスマン帝国(1299年~1922年)が相次いで解体して以降となった。
④ちなみに第一次世界大戦の痛手はあまりにも甚大で、欧州諸国の国力がそれ以前の段階まで回復したのは1970年代になってから。かかる欧州文化圏が相対的に国際的影響力を喪失していた(代わってアメリカやソ連といった新大国が世界の中心にのし上がった)時期を歴史的特異点と解釈する「総力戦時代」なる歴史区分も存在する。
そして時は21世紀。鉄道網と汽船航路によって世界中の物流網が一つに結ばれた結果として史上初の国際恐慌が勃発して「1859年認識革命」の引き金となった様に、世界中のデータ・トラフィック網がインターネットによって一つに結ばれた結果「ビッグデータ革命」が勃発したという次第。
同時進行でゲーム・グラフィック画質進化の落し子としての「並列処理の化物」GPU(Graphics Processing Unit)進化があり、かかる特定演算力の飛躍的向上を背景に「パラメーター数が$${2^{10000}=10^{30}}$$のオーダーを超えて初めて本領を発揮する機械学習アルゴリズム」大規模言語システム(LLM=Large Language Models)が登場してきた訳です。
今度は如何なる価値観アップデートが必要となるのでしょうか。それにともなって「誰かに実害を与える可能性のある個性や多様性や天才」への認識はどう動くのでしょうか。この投稿シリーズではそのあたりに注目していきたいと考えています。
そんな感じで以下続報…