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【白人ナショナリズムの諸相】「イエズス会の騎士修道会精神」をめぐる正気歌

以下の投稿をまとめる段階で、ふと気付いた事があります。

ヴァリニャーノ東インド管区巡察師(Alessandro Valignano / Valignani、1539年~1606年)が起草した宣教ガイドライン「日本の風習と流儀に関する注意と助言(1581年)」に見受けられる適応主義…あえて「清貧の誓い」を破り、当時の日本の身分意識と風俗に適応する事で既存のカソリック文化の伝統にこだわり続ける托鉢修道会には不可能だった伝教成果を達成。日本人に本国の十字軍的野心を見透かされて元の木阿弥になるも全国に「隠れキリシタン」を残した。

「グアダルーペの聖母」なるシンボルを軸としての「メキシコ人」民族意識創造…女陰そのものをシンボルとするアステカの女神トナンツィン (Tonantzin、ナワトル語で〈われらの母〉の意) 信仰をベースにスペインのサラマンカ大学におけるフランチェスコ・デ・ヴィトリア教授(Francisco de Vitoria、1485年〜1546年)の講義「De Indis(1532年)」、ローマ教皇パウルス3世が発布した「インディオは理性ある人間として扱われるべき」なる回勅(1537年)による植民地でのインディオへ迫害禁止、「ガダルーペの聖女発見者」フアン・ディエゴの列聖、彼が聖母を見たメキシコ市近郊のテペヤク(Tepeyac)の丘への巨大なグアダルーペ寺院(Basílica de Nuestra Señora de Guadalupe)建造などを経て熟成。皮肉にも被支配者の感情慰撫だけにとどまらずメキシコ独立の原動力となる。

讃美歌によって先住民グァラニー族を掌握し、奴隷狩りバンデイランテスに対抗したパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルの三国にまたがるミッソンエス地方のインディオ教化村…迫害された背景に当時のブラジルにおける奴隷労働力不足があり、当時のポルトガル王国の権力者ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ(Sebastião José de Carvalho e Melo, primeiro Conde de Oeiras e Marquês de Pombal、1699年〜1782年)を怒らせてイエズス会そのものが活動停止に追い込まれてしまう。

これ、あと幾つか事績を足したら「イエズス会の騎士修道会精神をめぐる正気歌」を構成するのでは?

「正気歌」見受けられる「正気」の構造。有事に対応する為に語彙の拾捨選択が強化され、より洗練された語彙空間が現れる。

ネルチンスク条約(1689年)

康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。
  • 17世紀中頃からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が黒竜江・アルグン川より南下(後の南下政策)するようになり、黒竜江沿いにはアルバジンの要塞が築かれた。このため清と朝鮮王朝の連合軍がたびたび「清露国境紛争」と呼ばれている討伐を行った。清は逃亡者の引き渡しをロシアに求め、さらにロシア人の撤退を求めた。しかし、ロシアはこれを拒否した。

  • 清が討伐軍を本格的に動かし始めた為、ロシアの摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のヴァシーリー・ゴリツィンはフョードル・ゴロヴィンを特使として派遣し、1689年にネルチンスクで清のソンゴトゥと交渉を開始。ロシアは清との交易を望み、清は清・ジュンガル戦争(第一次、1687年〜1697年)中であったことからモンゴルのジュンガルを孤立させることを望んだため、利害関係が一致し、交渉が成立したのだった。

  • 対等の条約ではあったが、清にとって有利なものとなった。なぜなら、ロシア側にとっての念願であった不凍港を獲得できなかったからである。2度のクリミア遠征(1687年、1689年)失敗とネルチンスク条約での譲歩は、ソフィア・アレクセーエヴナの摂政政府の威信を失墜させる。9月になるとゴリツィンはシベリアへ流罪となり、ソフィアは修道院に幽閉された。そしてピョートルの母ナタリヤ・ナルイシキナが実権を回復し、1694年に死去するまで国政を運営。その後、ピョートルが親政を開始する。

  • 一方、清朝はロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、以降ロシアの朝貢国扱いを続ける。その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。

  • 両国間では言語が異なるため条約の原文はラテン語からなっており、清側のアドバイザーとして2人のイエズス会員トマス・ペレイラ(Thomas Pereira、徐日昇)およびジャン・フランソワ・ジェルビヨン(Jean-Francois Gerbillon、張誠)が交渉にあたった。イエズス会士は両国の宮廷にいて、条件を詰める調整は彼らが仕切ったと考えられている。

イエズス会員が清朝の宮廷に入り込んだのは大砲の供給を契機にしての事でした。その後、天文学の知識を駆使して暦の制定に参画。

ドイツ出身のイエズス会宣教師。明末の1622年に中国に渡り、布教を始めたキリスト教宣教師の一人。中国名湯若望。明の崇禎帝に仕え、徐光啓と協力して暦法を改正(『崇禎暦書』)し、また大砲の鋳造にあたった。アダム=シャールの製造した大砲は、それまでのポルトガル人やフランス人が伝えた仏朗機(フランキ)砲に対し紅夷砲(ドイツ人やオランダ人は紅夷といわれていた)といわれ、弾道に基づく照準法も伝授したので性能がよく、清軍の侵攻に悩む明にとって大切な武器となった。明が滅ぶと清に仕え、西洋暦法の正しさを実証して採用され、時憲暦という暦をつくり1645年から施行された。彼はさらにイエズス会宣教師でありながら、北京の天文台長官(欽天監正)に登用された。

上掲世界史の窓「アダム=シャール/湯若望」

ベルギー出身のイエズス会宣教師。1659年に清の時代の中国に渡った。中国名南懐仁。康煕帝が三藩の乱に際し、フェルビーストに大砲の鋳造を命じ、これが功を奏して乱を鎮定することができたので、康煕帝は宣教師のもたらす西洋の技術に大いに関心を持ち、たびたび紫禁城の内廷に彼を招いて講義を聴いたという。またこの康煕帝の時代はキリスト教に寛容であったのも彼らの活動に追うところが大きい。またフェルビーストは暦の制定で天文学の知識を発揮し、1669年正月元日に起こった日食の時刻を正しく計算したことでも康煕帝の信頼を獲得し、アダム=シャールのあとを受けて天文台長官となった。

上掲世界史の窓「フェルビースト/南懐仁」しかし

しかし例によって例の如くかかるイエズス会の勝利も、托鉢修道会やパリ外宣教会の乱入によって元の木阿弥にされてしまうのです。

典礼論争(てんれいろんそう)は、17世紀から18世紀のカトリック教会内で、中国の伝統文化とキリスト教の間のバランスをどのように取るかという問題を巡って行われた一連の論争のこと。

当時、清朝中国で活躍していたイエズス会員たちは中国の習慣と文化を尊重し、キリスト教に巧みに取り込むことで中国における信徒数の拡大をもたらしたが、この方法論をドミニコ会やパリ外国宣教会など他の修道会が批判。教皇クレメンス11世は最終的にイエズス会のやり方に非があると裁定を下したため、中国におけるキリスト教は衰退の道をたどることになる。

この論争では、イエズス会と他の修道会が非ヨーロッパ文化への対応という問題をめぐって争うことになった。同じような問題はインドにおける宣教でも起こっている。

上掲Wikipedia「典礼論争」

イエズス会員たちは宣教師として中国におけるキリスト教の普及を最大の目標にしていたが、さしあたっての問題は知識人階級たちが儒教を、一般庶民が道教と仏教を信奉しているということであった。中国人の生活の中にこれらの宗教は密接に結びついていた。特に儒教と道教において祖先の位牌の前で香を焚き、祈りをささげる行為は人々の生活から切り離せないものだった。イエズス会員たちはこれを「宗教的儀式」ではなく「宗教色のない古来からの社会的習慣」であると主張し、カトリックに改宗したものであってもそれらの儀式を行うことはさしつかえないと主張した。

1631年になってドミニコ会とフランシスコ会も中国に宣教師を送り込んだが、イエズス会員のように中国の事情を考慮せず、ヨーロッパの習慣ややり方を強制し、中国人の伝統や文化を軽視する態度を見せたため反発を受け、最終的に官憲から追放の憂き目にあった。ドミニコ会員たちは、この追放処分はイエズス会が官憲に働きかけたためであると一方的に断定し、教皇庁に中国のイエズス会員たちが異教の習慣を許容していると訴えた。これを受けて1645年教皇庁から中国における典礼行為を禁止する旨の通達が出され、教皇インノケンティウス10世もこれを承認した。しかしイエズス会員たちは詳細にこれに反論、教皇庁から中国の典礼行為のすべてが宗教的なものでないという先の裁定と異なる認可を得たため、論争は混乱した。

その後も論争は続いたが、1693年に中国在住のパリ外国宣教会会員メグロが中国での典礼行為はすべて異教のものであるとして禁止したため、反イエズス会の雰囲気が強まっていた本国フランスでパリ外国宣教会とイエズス会の論争が始まった。

上掲Wikipedia「典礼論争」

一方帝政開始前夜、すなわちピョートル1世(在位1682年~1725年)親政開始以前のロシア宮廷にもイエズス会員がいた理由は現時点では不明。ピョートル1世の摂政ソフィア・アレクセーエヴナ(在任1682年~1689年)の愛人にして首席顧問のヴァシーリー・ゴリツィン公(前代ツァーリのフョードル3世時代からの実力者)が西欧事情に明るく、その治世には人文主義的な傾向をもつ高等教育機関スラヴ・ギリシア・ラテン・アカデミーが設置されたり、ユグノー亡命者の受け入れなどが行われた事と何か関係があるのやも。

ここに登場するイエズス会員は「高度な知識を駆使していかなる文化圏へも入り込める異文化間衝突仲裁のエキスパート」といった風格を漂わせていますね。ただし清朝では内ゲバに敗れ、領土的野心を剥き出しにする様になった帝政ロシアでは急速に存在感を失っていったという次第。

ヘイズ・コード(Hays Code, 1934年~1968年)

【コロンビア映画の主席写真家A.L.Schaferが撮影して密かに回覧したHays Codeを揶揄する写真】汝、以下を画面に登場させるべからず。①法の敗北を描くべからず。②腿の内側。③レースの下着。④屍体。⑤麻薬。⑥飲酒。⑦胸元の露出。⑧賭博。⑨銃を人に向ける場面。⑩トミーガン

かつてアメリカ合衆国の映画界で導入されていた自主規制条項。アメリカ映画製作配給業者協会によって1934年から実施され、名目上は1968年まで存続した。

しばしば誤解されるような検閲制度ではなく、一部の映画を不道徳だとして非難する団体などに対抗してハリウッド作品の上映を保証するため、業界側が自主的に導入したガイドラインに過ぎない。条項ではさまざまな描写が「禁止」とされたが、そうした描写を含む作品が条項の導入で全く作られなくなったわけではない。

上掲Wikipedia「ヘイズ・コード」

実はこれ、1929年にサイレント映画時代に色々とやり過ぎて社会的信用を失ったハリウッド映画業界の為、アイルランド系大手業界紙 「Motion Picture Herald」編集者のマーティン・クィッグリーがカトリック信徒つながりでイエズス会士ダニエル・A・ロード神父に起草を依頼した映画向けの倫理規定が下敷きとなっています。

  • 当時のハリウッド業界が「エジソンに特許料を払うのが嫌で西海岸に逃げてきて映画を制作したユダヤ人冒険主義者集団」だった事を併せて考えると、東海岸(特にニューヨーク)に遡る「米国におけるマジョリティたるプロテスタント陣営から冷飯を食わされてる同士の呉越同舟」といった人間関係が浮かび上がってくる。「(お互い気に食わない同士だが)アイルランド人の雄弁とユダヤ人の謀略が手を組めば無敵」といわれたアレである。

タマニー・ホールの支持基盤は増加する一方の移民にあり、しばしば援助と引き換えに政治的支援を確保していた。ニュー・ディール政策以前のアメリカにあっては、ホールを含む都市部のマシーンが提供する超法規的なサービスが事実上の社会福祉の役割を果たした。対象となる移民は多くが極貧層であった上、行政からの支援も十分とは言えなかったため、様々な面で援助を行った。まず、緊急時に備え食糧や石炭、金や仕事をはじめ、当面の生活手段を提供した。市民生活への関与の例としては、ジョージ・ワシントン・プランキットの逸話が挙げられる。彼は住宅火災の犠牲者救済や貧困家庭の家賃を肩代わりしたのみならず、支持者の葬儀や結婚式にまで足を運んでいたという。 また、各種選挙に投票するにも国籍が必須なため、移民に対して帰化の支援を行うなど社会的統合を促した。違法紛いの手段ではあったが頻繁に行われたものとしては、ウィリアム・M・トウィード時代に設置された帰化委員会がある。この委員会では帰化に必要な料金を肩代わりするとともに保証人を確保し、場合によっては係員に圧力をかけてまで手続きを行わせていたとされる。

上掲Wikipedia「タマニー・ホール」

タマニーホール(Tammany Hall)は、19世紀から20世紀初頭にかけて、ニューヨーク市の民主党の政治機械として知られていました。この組織は、特に移民のコミュニティに対して強い影響力を持ち、その中でもユダヤ人やアイルランド人との関係が深かったです。以下にその詳細を説明します。

タマニーホールの概要

タマニーホールは1789年にニューヨークで設立され、19世紀から20世紀にかけて市政に大きな影響を及ぼしました。特に選挙を通じて政治的権力を維持するために、移民コミュニティの支援を積極的に獲得しようとしました。

アイルランド人との関係

移民のバックグラウンド:19世紀半ばから後半にかけて、アイルランドからの移民がニューヨーク市に大量に流入しました。特に1840年代のジャガイモ飢饉(Great Famine)により、多くのアイルランド人がアメリカに移住しました。

政治的影響力:タマニーホールは、アイルランド系移民を支援することで彼らの忠誠を確保し、選挙での強力な支持基盤を築きました。アイルランド系のニューヨーク市民は、タマニーホールの重要な支持層となり、多くのアイルランド系政治家がタマニーホールを通じて権力を得ました。ウィリアム・"ボス"・トゥイード(William "Boss" Tweed)はタマニーホールのリーダーであり、アイルランド系移民の支持を利用して強大な政治力を行使しました。

社会的支援:タマニーホールは、職業斡旋、住宅支援、法的援助など、さまざまな形でアイルランド系移民を支援しました。このような社会的サービスを通じて、彼らの生活向上を図り、同時に政治的な支持を確保しました。

ユダヤ人との関係

移民のバックグラウンド:19世紀末から20世紀初頭にかけて、特に東欧からのユダヤ人移民がニューヨーク市に大量に流入しました。彼らは主にマンハッタンのロウアーイーストサイドに定住しました。

政治的影響力:タマニーホールは、ユダヤ人コミュニティにも影響力を拡大しようとしました。ユダヤ人移民は、新たな支持基盤となり、タマニーホールは彼らのための社会的支援を提供しました。タマニーホールを通じて、ユダヤ人政治家も権力の座に就くことができました。例えば、フィオレロ・ラ・ガーディア(Fiorello La Guardia)は、ユダヤ人とイタリア人のバックグラウンドを持ち、ニューヨーク市長として活躍しました。

社会的支援:タマニーホールは、ユダヤ人移民のために教育、職業訓練、住宅支援を提供しました。これにより、ユダヤ人コミュニティの生活改善とタマニーホールへの支持が強化されました。

タマニーホールの影響と終焉

タマニーホールの影響力は、20世紀半ばにかけて徐々に減少しました。腐敗や政治スキャンダルが明るみに出ることで、その権力は衰えました。しかし、タマニーホールはニューヨーク市の政治において、移民コミュニティを取り込み、彼らの生活を支援することで大きな役割を果たしました。

まとめ

タマニーホールはニューヨーク市のアイルランド人とユダヤ人の移民コミュニティに対し、重要な政治的および社会的支援を提供しました。これにより、これらのコミュニティからの強い支持を得て長期間にわたり市政に大きな影響を及ぼしました。その結果ニューヨーク市の政治風景における移民の役割が強化され、同時に移民自身の社会的地位の向上にも寄与しました。

ChatGPTに質問「タマニーホールとアイルランド人やユダヤ人の関係について教えてください」

ニューヨーク市におけるユダヤ人とアイルランド人の歴史的関係は、複雑で多層的なものでした。両コミュニティは、19世紀から20世紀にかけての移民の波の中でニューヨークに定住し、それぞれが独自の文化的、経済的、政治的影響を与えました。以下に、その歴史的関係の主な側面を説明します。

19世紀後半の移民

アイルランド人移民

背景:1840年代のアイルランドのジャガイモ飢饉(Great Famine)により、数百万人のアイルランド人がアメリカに移住しました。多くはニューヨーク市に定住し、特に低賃金の労働者として働きました。

社会的影響:アイルランド人は急速に組織化し、カトリック教会を中心にコミュニティを形成しました。また、タマニーホールを通じて政治的影響力を獲得しました。

ユダヤ人移民

背景:19世紀後半から20世紀初頭にかけて、東欧(特にロシア帝国)からの迫害を逃れるために、多くのユダヤ人がニューヨークに移住しました。彼らは主にマンハッタンのロウアーイーストサイドに定住しました。

社会的影響:ユダヤ人は、シナゴーグ、教育機関、慈善団体などを中心にコミュニティを築き、文化的・経済的な影響力を拡大しました。

競争と協力

労働市場と職業

競争:アイルランド人とユダヤ人の間で労働市場を巡る競争がありました。特に低賃金の労働者としての地位を巡る対立がありました。

協力:一方で、労働運動においては協力も見られました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、両コミュニティは労働者の権利を求める運動で共闘することがありました。

政治的関係

競争:タマニーホールは主にアイルランド系の支持を受けていたため、ユダヤ人コミュニティと政治的に競合することがありました。しかし、ユダヤ人も次第に政治的影響力を強め、特に社会主義やリベラルな政治運動での影響力が増しました。

協力:20世紀中盤になると、ニューヨーク市の多様なコミュニティが共同で市政に影響を与えることが増え、アイルランド人とユダヤ人の政治家が協力する場面も見られました。

文化的関係

宗教と文化の違い:アイルランド人はカトリック教徒が多く、ユダヤ人はユダヤ教徒でした。この宗教的な違いは、しばしば両コミュニティ間の分断を生む要因となりました。

文化的交流:しかしながら、ニューヨーク市という多文化な環境の中で、アイルランド人とユダヤ人の文化が交わる場面もありました。特に音楽、演劇、文学などの分野で相互の影響が見られました。

20世紀後半から現在

移民の波の変化:20世紀後半から現在にかけて、ニューヨーク市にはさらに多様な移民が流入し、アイルランド人とユダヤ人の相対的な人口は減少しました。しかし、両コミュニティは引き続き重要な社会的・文化的役割を果たしています。

多文化主義:現在では、ニューヨーク市は多文化主義の象徴となり、アイルランド人とユダヤ人は他の多くのコミュニティとともに、市の豊かな文化を形成しています。

まとめ

ニューヨーク市におけるユダヤ人とアイルランド人の歴史的関係は、競争と協力が交錯する複雑なものでした。両コミュニティは、それぞれの宗教的・文化的背景を持ちながら、共に都市の発展に貢献し、時には対立し、時には協力しました。現代においても、これらのコミュニティはニューヨーク市の多様性と活力の重要な一部を形成しています。

ChatGPTに質問「ニューヨークにおけるユダヤ人とアイルランド人の歴史的関係について教えてください。」
  • 一方、ダニエル・A・ロード神父が起草したヘイズ・コードはいかにもイエズス会士っぽい、すなわちカテキズム(Catechism=郷里問答)っぽいディスクールで執筆されている。そう、問題ある現行通念の一個一個に丁寧にパッチを当てていく感じ…

それが最も明瞭に現れるのが序文箇所。

正しいエンターテイメントは国民全体の水準を引き上げ、間違ったエンターテイメントは国民の道徳的理想を引き下げ日々の生活を過酷なものにする。そして(劇場ごとに客層の異なる演奏会や芝居と異なり)フィルムに焼き付けられた映画の上映会は観客を選ばないので(子供もギャングも見に来る為)特に内容を慎重に吟味する必要がある。

①書物は冷ややかに説明するが、フィルムは鮮やかに提示する。

②書物は言葉を通じて心に到達するが、フィルムは撮影内容の再生結果を眼と耳に同時に届ける。

③書物が読者から引き出す反応は当人の想像力と熱意に比例するが、映画が観客から引き出す反応は提示の手際の良さに比例する。

とどのつまり良い意味でも悪い意味でもその影響力は書籍や音楽や芝居より顕著で一方的なのであり、だからその影響の範囲と方向性を「映画を通じて悪行は悪いもので、善行は正しいことであると観客が確信する」形に限定せねばならない。特に悪党に犯罪のヒントを与えたり、人々の心に粗暴な振る舞いや犯罪や麻薬や不実な愛といった悪徳への憧憬を惹起する様な振る舞いだけは絶対に避けねばならぬ。

上掲Wikipedia「ヘイズ・コード」序文

そもそもカソリックは「人間は五感を通じて神の国を感得する」という前提から教育効果と芸術と儀礼を統合してきた伝統を有しています。「目から摂取する聖典」と呼ばれる事もあるゴシック建築や「耳から摂取する聖典」と呼ばれる事もある讃美歌がその代表例…

そして反宗教革命の使命を帯びて世界中に伝教の旅に出たイエズス会は特にこの方面のノウハウを徹底して研鑽してきた訳で、その集大成として「トーキー映画登場が人類に与える影響」について考察している感じが実に興味深いという訳です。ここで重要な鍵として浮上してくるのが「隔世遺伝により先祖返りした犯罪を犯しやすい人類の一変種が存在し、身体形質(外見)によって判別可能」とするロンブローゾ(Cesare Lombroso, 1835年~1909年)の生来性犯罪者説を論駁したガブリエル・タルド(Jean‐Gabriel de Tarde、1843年~1904年)の模倣犯罪学…

  • ここで私の脳裏に浮かぶのはデヴィッド・リンチ監督映画「エレファント・マン(The Elephant Man. 1980年)

タルドが「比較犯罪学(La criminalité comparée,1886年)」や「模倣の法則:社会学研究(Les lois de l'imitation: Etude sociologique,1890年)」で示した「犯罪は伝播や伝染といった観点から模倣的な事実である」なる観点が、ヘイズ・コードには以下の様に要約される形で盛り込まれています。

  • 犯罪の手口を広めたり、ギャングやその情婦の理想化する事は許されない。物語中の悪はあくまで因果応報の報いを受けるべきである。

  • それに代わって幸福な結婚や家庭生活を奨励すべきである。正義はあくまで最終的勝利を飾らねばならない。

皮肉にも、いきなり「ならばギャングや情婦を決して美化して描かず、悲惨な最後を遂げさせればいいよね」なる搦手から歴史に残る傑作が生まれます。大富豪ハワード・ヒューズがプロデュースした「暗黒街の顔役 (Scarface,1932年)」がそれですね。1983年にリメイクされています。

また1934年時点で発表されたのは小説だけでしたが、1946年には戯曲化され、1939年、1943年、1946年、1981年に映画化されたジェームズ・M・ケイン「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice)」。いわゆる「ロミオとジュリエット型バルコニー構造」の物語構成を逆手に取って完全犯罪を目論む不倫カップルの破滅を描きます。

なおこの作品の1981年版映画、リドリー・スコット監督映画「ブレードランナー(Blade Runner,1982年)」と公開時期が近かったので私の中で記憶が混ざっています。物語展開も大体似た感じ?

そして「狼男」ジャンルの大源流となったガイ・エンドア「パリの狼男(The Werewolf of Paris,1933年)」。あまりに内容が過激過ぎて、そのまま映画化された事が一度もありません。

映画「キングコング(King Kong,1933年)」の大ヒットも忘れてはなりません。この物語も、ドラマ部分に注目すると中々壮絶な「正義と悪のせめぎ合い」が織り込まれていたりします。

当時の様相に目を向けてみましょう。禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)がまだ履行されてる間に世界恐慌(1929年)が勃発。エンターテイメント業界においてすら「何が幸福な結婚や家庭生活だ。まずは目の前の不都合な社会的現実に目を向けよ」なる怒号が満ち溢れる暗い世相の最中、あえて逆張りして大ヒットを飛ばしたのが南イタリア系移民のフランク・キャプラ監督の「或る夜の出来事(It Happened One Night, 1934年)」や「オペラハット(Mr. Deeds Goes to Town, 1936年)」だったのです。

そして「大衆は目の前の不都合な社会的現実より、それを吹き飛ばしてしまう様な大きな法螺話に飛びつく」を完全に実践し、試写を目にしたゲッベルスに「正解だ」と太鼓判を押されたのがウォルト・ディズニー監督映画「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs, 1935年)」だったという次第。

中心に浮かび上がってくる「イエズス会の騎士修道会精神」

結論から言えば、どうやら「教皇を頂点として仰ぐ世界の拡大」を試みつつ「(出向いた外世界ではまだそれが定着前ないのもあって)決して教皇の権威を利用しての強硬手段には打って出ない」のが、これまで列記した五つの事績から浮かび上がってくる共通特徴となりそうです。そこまで考えが進んだ時点で以下続報…

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