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【数理的溢れ話11パス目】「ムッツリスケベ」数聖ガウスは何について語らなかったのか?

今回の投稿、実は当初以下の投稿の一部だったですが、書き足すうちに独立性が高まったので分離を決意した次第。

ところで「ムッツリスケベ」数聖ガウスは何について語らなかったのか?

前回投稿時の設問。

その数聖ガウスが、自らもフランス革命(1789年~1795年)からナポレオン戦争(1796年~1815年)にかけての既存価値観崩壊期に「愛(i)への忌避感」も弱まったのを背景に複素平面概念を広めた当事者の一人だったにも関わらず、それと密接な関わりのある業績をあえて切り離して発表してきた疑惑が急浮上。

上掲「数理的こぼれ話9パス目」より

その後、この「ムッツリスケベ数聖ガウスは「表現規制全盛期」何について語るのを見合わせたのか?」 なる質問の回答になるかもしれない仮説を思いつきました。ここで便宜的に「表現規制全盛期」と呼んだのは…

  • 古代ギリシャ時代から続く数学の伝統と相容れない「二乗すると-1となる」虚数$${i=\sqrt{- 1} }$$概念について、大っぴらに語る事が憚られる時代が数世紀にわたって続いてきた(かろうじて数式中でのみ使用が許されエーテル仮説同様「計算上の便宜」と言い訳されてきた)。
    複素数の歴史にみる虚数を実体化する学習

虚数は 16 世紀にカルダノ(1501~1576 年)によって初めて考察された。以後、カルダノの弟子のボンベリ(1526~1572 年)が計算法則を定義し、オイラー(1707~1783 年)などによって虚数の研究は進められた。しかし、当時の数学はギリシャ数学の影響を強く受けており、図示されない数は認められることがなかった。従って、「負数の場合のように$${\sqrt{- 1} }$$もこれを目の前に図示できるまでは、その理論を十分に展開できることはなかった。それで、ニュートン(1642~1727 年)、デカルト、オイラー時代には、$${\sqrt{- 1} }$$はやはり代数的虚構とされていたのである」

上掲「複素数の歴史にみる虚数を実体化する学習」
  • 当時の欧州人は公平世界仮説同様「この世界のあらゆる事象それぞれについて神が与えたもう固有の確率分布が存在する」と完全に信じ切っており「サンプル数を無制限に増大させていけば、ほとんどの確率分布が正規分布に収束する」なる考え方を受容する準備が出来ていなかった。

前者の壁については数聖ガウス自身も深く関与した複素平面と巡回群の概念の発見によって彼の存命中に突破の夢が叶った上、産業革命時代には「原則として1次元の事象ながら三次元的干渉も受け、これを虚数で表すと大変都合がいい」電子工学分野の台頭まであった訳ですが…

「この世界のあらゆる事象それぞれについて神が与えたもう固有の確率分布が存在する」先入観については「ラプラスが考案した原因の確率論(ベイズ統計学)こそ新しい観察結果に基づいて仮説を検証する際に有効な唯一の手段」とその著書に書き残したフランスの数学者ベルトラン((Joseph Louis François Bertrand、1822年~1900年)ですら、ベイズの定理について以下の様に反応してしまう状況が19世紀一杯続いたのです。

ただしラプラスの信奉者たちは道を見失ってしまっており、事前原因の確率を見境なく半々にするのはやめるべきだ、というのがベルトランの考えだった。そしてそれを裏付けるために、近所の岩だらけの海岸で難破が起きる原因を突きとめるのに、海の潮の流れが原因である可能性とそれよりはるかに危険な北西の風が原因である可能性が等しいとしたブルターニュの愚かな田舎者の話を引き合いに出した。ベルトランにいわせれば、事前確率を等しくするのは──きわめてまれなケースだが──あらゆる仮説が実際に同じように起きやすいか、あるいはそれらの仮説が起きる可能性について何もわかっていない場合に限るべきだった。

上掲「異端の統計学ベイズ」「フランス軍のなかで生きつづけたベイズの法則」より。

あくまで「多くの場合、それぞれの事象の起こる事前確率は自明の場合として明らかになっている」なる条件を付けてのベイズ統計学受容だった訳ですね。しかも世間のベイズ統計学への批判があまりにも強過ぎる為、フランス軍はその現場での採用を世間には隠し通さねばならなかったのです。まさしく猥褻物扱いもいいところ…そんな当時の状況が図らずしも引き起こしてしまった悲劇がドレフェス事件(1894年~1906年)の最終局面だったという…

ドレフュスの弁護士は一八九九年に開かれた軍事裁判に、フランスのもっとも有名な数学者で物理学者のアンリ・ポアンカレを招聘した。ポアンカレは一〇年以上にわたってソルボンヌ大学で確率を教えており、頻度に基づく統計を信じていた。ところがベルティヨンが証拠とする文書がドレフュスの手になるものなのかと問われたポアンカレは、ベイズの法則を持ち出した。法廷が新たな証拠に基づいてそれまでの仮説を更新したいのなら、この手法こそが良識ある方法であって、このような文書のねつ造に関する問題は、ベイズの法則に基づく仮説検定の典型的問題だというのである。ポアンカレはドレフュスの弁護士に皮肉の利いた短い手紙を託し、弁護士が法廷でこの手紙を読み上げた。ベルティヨンが「もっともわかりやすい点と述べているものは誤りであって……この途方もないまちがいゆえに、その後のすべてが疑わしくなる……なぜあなたがたが判断に悩むのか、わたしにはわからない。被告が有罪になるかどうかはわたしのあずかり知らぬところであるが、かりに有罪になるとすれば、その根拠はこの手紙とは別の証拠であるはずだ。このような論拠によって、しっかりした科学教育を受けてきた公正な人間を動かすことはできない」弁護士がここまで読み上げたところで──法廷の速記者によると──法廷は「長期にわたり大騒ぎ」になったという。ポアンカレの証言は起訴の根拠を木っ端みじんにした。裁判官は全員軍学校を出ており、ベルトランの教科書でベイズの法則を学んでいたのである。

裁判官たちは妥協案として、ドレフュスはそれでも有罪だが、刑期は五年に短縮されるという評決を下した。ところが一般大衆は怒り狂い、二週間後には共和国大統領が恩赦を発令することになった。ドレフュス自身は昇進してレジヨン・ドヌール勲章を受け、政府の改革によって教会と国は厳密に分けられるようになった。

上掲「異端の統計学ベイズ」「フランス軍のなかで生きつづけたベイズの法則」より。

ベルトランの教科書を通じて「あらゆる局面で最優先判断をもたらす」近代的統計を学んできた当時のフランス軍人にとって、数学者ポアンカレが下した「数学的裁定」が絶対だった事こそ八方塞がりの状況が動いた訳ですが、世界中のインテリ達はその事実を認めず全部自分達のアンガージュマン(engagement=知識人や芸術家の政治参加)の手柄にしてしまったという次第。

フランスでは、絶対王政の時代から政治や経済の中枢を担うのは伝統的に「理系」すなわちエコール・ポリテクニーク(École polytechnique=国立工芸院)の様なグランゼコール(Grandes Écoles=テクノクラート養成校)出身者とされ、こうした人はそれなりの保護を受けつつもそうした現場から遠ざけられてきた訳ですが「どうしてそんな体制が生み出され、現代なお維持され続けているのか」についての答え合わせがこれなのかもしれません。

前置きは頃くらいにして、そろそろ本題に入りましょう。「ムッツリスケベ数聖ガウスは一体何について語らなかったのか?」。私が思いついたのは、それは「$${x^2=-1}$$ と$${x^2=1}$$の連続性」についての何かだったんじゃないかという事でした。もちろんここでいう$${x(i)^2=-1}$$とは複素数a+biの事…

そして$${x^2=1}$$の「1」とは円錐曲線の離心率εの事となります。


円錐曲線(立体図)
円錐曲線(平面図)

そしてもちろん、行列演算で連立方程式が「綺麗に解ける(綺麗な逆行列が見つかる)」のが方形行列(行と列の数が一致する行列)に限られ、それ以外の場合は近似となって最終的に最小二乗法による解法」に辿り着く辺りが最大のヒントとなりそうです。$${x^2=-1}$$の系では一定を保つ回転半径が$${x^2<1}$$または$${1x^2>1}$$の範囲では際限なく大きくなっていくイメージ?

ここで興味深いのが、こうした展開全体に(表現規制バリバリの)数学の世界を避け(分析しなければならない観察対象が目の前に実存し、なりふり構ってなどいられない)物理学の世界を中心として展開してきた気配が見てとれる事。

ただ、まだ詳しい話まで踏み込める段階にありません。例えばこの問題についてはカイ2乗検定の関与も疑ってるのですが、(相関係数と最小二乗法で経験した様に)まずその計算の意味を十分に深く理解しない限り一歩も先に進めないのです。

連続一様分布概念も、どこかで絡んできそうな予感。特に標準偏差が$${\frac{b-a}{2\sqrt{3}}}$$となる辺り…
連続一様分布

ちょっとばかり竜頭蛇尾気味ではありますが、とりあえず以下続報…

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