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【分布意味論の起源1パス目】漢詩「正気歌」に見てとれる二階微分アプローチ

以下の投稿で一つのアプローチ案が固まりました。

「デカルト座標系(あるいはユークリッド幾何学系)概念の呪い」を解くを解く鍵となりそうなのが「加速度1、質量1に単純化されたニュートン物理学」の世界。

上掲「デカルト座標系の呪い?」
  • 「重力加速度1(数学でいう「傾き1」)」に任意の次元数のスカラー量 $${α_n}$$とベクトル量$${x_n}$$の組を与えると速度ベクトルFとなる(線型結合表現)。

$$
F(a_n,x_n)=\sum_{i=1}^n a_ix_i=a_0x_0+a_1x_1+a_2x_2…
$$

  • この速度ベクトルFを時間積分すると距離Dが求められる。

$$
\int_0^{t_{max}}F(t)dt
$$

  • 「任意の曲線の各点の状態を微分によって求め、積分によって全体距離を割り出す演算」もこの部類に入る。

$$
\int_a^b\sqrt{1+(\frac{dy}{dx})^2}dx
$$

何のことはない。機械学習理論を含め、今日なお科学実証主義の柱であり続けている「微分方程式を整備する形で外測度領域の神秘に迫ろうとする観測アプローチ」そのものという訳です。

上掲「デカルト座標系の呪い?」

実はこれを執筆するとき脳裏にあったのは数学の世界でも物理学の世界でもなく漢詩「正気歌」の世界だったのです。


文天祥「正気歌」

作者文天祥(1236年~1283年)は宋末の宰相。

滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後はに捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。張世傑陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。

宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受ける。この時に文天祥は有名な『正気の歌』を詠んだ。何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかった。朝廷でも文天祥の人気は高く隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。

Wikipedia「文天祥」

儒教の事はそれほど詳しくないのですが「気一元論」に基づく内容に見えて「その気が理そのもの」と言わんばかりの複雑な構造を備えています。

理気一元論といったら中国では陸王学、日本では陽明学と呼ばれる知行同一、すなわち実践性を重視する派閥が有名ですが、こちらは明代発祥。いずれにせよモンゴル人の侵攻を防げなかった朱子学批判から生じた形。

天地有正氣 雜然賦流形 天地に正気有り 雑然として流形を賦く
下則爲河嶽 上則爲日星 下りては則ち河嶽と為り 上りては則ち日星と為る於人曰浩然 沛乎塞蒼冥 人に於ては浩然と曰い 沛乎として蒼冥に塞つ
皇路當淸夷 含和吐明庭 皇路清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く
時窮節乃見 一一垂丹靑 時窮すれば節乃ち見れ 一一丹青に垂る

この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。

文天祥「正気歌」

圧巻なのは「時代と場所を超越して顕現した(一階微分)気の結晶(二階微分)」を列記する箇所。意味分布論的にも「こうして実際の意味分布は構築される」実例として中々貴重といえましょう。

在齊太史簡 斉に在りては太史の簡
春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。

文天祥「正気歌」

在晉董狐筆 晋に在りては董狐の筆
春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。

文天祥「正気歌」

在秦張良椎 秦に在りては張良の椎
秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。

文天祥「正気歌」

ここでは特に愛皇帝暗殺未遂事件

在漢蘇武節 漢に在りては蘇武の節
漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。

文天祥「正気歌」

爲嚴將軍頭 厳将軍の頭と為り
断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。

文天祥「正気歌」

爲嵆侍中血 嵆侍中の血と為る
皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。

文天祥「正気歌」

爲張睢陽齒 張睢陽の歯と為り
食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。

文天祥「正気歌」

爲顏常山舌 顔常山の舌と為る
切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。

文天祥「正気歌」

或爲遼東帽 淸操厲冰雪 或いは遼東の帽と為り 清操氷雪よりも厲し
ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、

文天祥「正気歌」

或爲出師表 鬼神泣壯烈 或いは出師の表と為り 鬼神も壮烈に泣く
ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。

文天祥「正気歌」

ここでは特に名作と名高い「出師表」

或爲渡江楫 慷慨呑胡羯 或いは江を渡る楫と為り 慷慨胡羯を呑む
またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、

文天祥「正気歌」

或爲撃賊笏 逆豎頭破裂 或いは賊を撃つ笏と為り 逆豎の頭破れ裂く
更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。

文天祥「正気歌」

文天祥のディスクールが気一元論的な形式を取るしかなかったのは、祖国南宋がモンゴル世界帝国に滅ぼされた直後で「理が勝利を謳歌する」公正世界的発言を許されない状況に置かれていたからに他なりません。

是氣所磅礡 凛烈萬古存 是の気の磅礡する所 凛烈として万古に存す
當其貫日月 生死安足論 其の日月を貫くに当って生死安んぞ論ずるに足らん
地維頼以立 天柱頼以尊 地維は頼って以って立ち 天柱は頼って以って尊し
三綱實係命 道義爲之根 三綱 実に命に係り 道義 之が根と為る
嗟予遘陽九 隷也實不力 嗟予陽九に遘い 隷や実に力めず
楚囚纓其冠 傳車送窮北 楚囚其の冠を纓し伝車窮北に送らる
鼎鑊甘如飴 求之不可得 鼎鑊甘きこと飴の如きも 之を求めて得可からず
陰房闃鬼火 春院閟天黑 陰房鬼火闃として 春院 天の黒さに閟ざさる
牛驥同一皂 鷄棲鳳凰食 牛驥 一皂を同じうし 鶏棲に鳳凰食らう
一朝蒙霧露 分作溝中瘠 一朝霧露を蒙らば 分として溝中の瘠と作らん
如此再寒暑 百沴自辟易 此如くして寒暑を再びす 百沴自ら辟易す
嗟哉沮洳場 爲我安樂國 嗟しい哉沮洳の場の 我が安楽国と為る
豈有他繆巧 陰陽不能賊 豈に他の繆巧有らんや 陰陽も賊なう不能ず
顧此耿耿在 仰視浮雲白 顧れば此の耿耿として在り仰いで浮雲の白きを視る
悠悠我心悲 蒼天曷有極 悠悠として我が心悲しむ 蒼天曷んぞ極まり有らん
哲人日已遠 典刑在夙昔 哲人 日に已に遠く 典刑 夙昔に在り
風簷展書讀 古道照顏色 風簷書を展べて読めば 古道顔色を照らす

この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえる。君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。

文天祥「正気歌」
  • 「太史之簡」「董狐之筆」は古典「春秋」由来。ホメロス作の古代ギリシャ英雄叙事詩「イーリアス(希Ἰλιάς, 羅Ilias, 英Iliad)」「オデュッセイア(希ΟΔΥΣΣΕΙΑ, Ὀδύσσεια, Odysseia, 羅Odyssea)」の様に中国のみならず朝鮮半島や日本といった東アジア全域で基礎教養として強要されてきた基礎教養で「知識の珊瑚礁」全体におけるBIOS(Basic Input/Output System)/UEFI(Unified Extensible Firmware Interface)に該当する。

  • その一方で「出師表」というより諸葛亮「孔明」は明代に執筆された長編白話小説「三国志演義」などを通じて単なる基礎教養の枠組みを超越した人気キャラとなり、現在なおシンボル化した扇からビームを出したり、現代に転生してコンピューターを使いこなしたりと大活躍。「知識の珊瑚礁」の最先端に絡み続けている。

扇からび「軍師ビーム」を放つ諸葛孔明
現代に転生してパソコンを使いこなす諸葛亮(パリピ孔明)
「葬送のフリーレン」13巻
「葬送のフリーレン」13巻
「葬送のフリーレン」13巻
「葬送のフリーレン」13巻
「葬送のフリーレン」13巻
「葬送のフリーレン」13巻
「葬送のフリーレン」13巻
「ドリフターズ」4巻

そう、珊瑚礁が各時代ごとに層を為して形成されていく様に、基礎教養こそ継承されても時代によって選好されるディスクールが推移していく事は防げないのです。

そして後に日本でもこの形式に倣った漢詩が作成される事になります。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」 

藤田東湖(1806年~1855年)は幕末の水戸藩藩士

戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。

会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家として著名であるが、藤田は本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。

天保11年(1840年)には側用人として藩政改革にあたるなど、藩主・斉昭の絶大な信用を得るに至った。

しかし、弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせ、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。

弘化4年(1847年)には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永5年(1852年)にようやく処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。

安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。

上掲Wikipedia「藤田東湖」

こういう人物の代表作なので「和文天祥正氣歌」は事実上、尊王攘夷運動イデオロギーの表明書という体裁に。

天地正大氣 天地正大の氣,
粹然鍾神州 粹然として神州に鍾(あつま)る。
秀爲不二嶽 秀でては不二(ふじ)の嶽となり
巍巍聳千秋 巍巍(ぎぎ)として千秋に聳(そび)ゆ。
注爲大瀛水 注ぎては大瀛(だいえい)の水となり,
洋洋環八洲 洋洋として八洲を環(めぐ)る。
發爲萬朶櫻 發しては萬朶(ばんだ)の櫻となり,
衆芳難與儔 衆芳與(とも)に儔(たぐひし難し。
凝爲百錬鐵 凝(こ)りては百錬の鐵となり,
鋭利可割鍪 鋭利鍪(かぶと)を割く可(べ)し。
藎臣皆熊羆 藎臣(じんしん)皆な熊羆(ゆうひ),
武夫盡好仇 武夫盡(ことごと)く好仇(かうきう)。
神州孰君臨 神州孰(たれ)か君臨する,
萬古仰天皇 萬古天皇を仰ぐ。
皇風洽六合 皇風六合(りくがふ)に洽(あまね)く,
明德侔大陽 明徳大陽に侔(ひと)し。
不世無汚隆 世に汚隆(をりゅう)無らざれば,
正氣時放光 正氣時に光を放つ。

天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八洲をめぐる。開けば、幾万もの枝に咲く桜の花となり、ほかの草木の及ぶところではない。正気、凝れば、百度(ひゃくたび)鍛えし日本刀となり、切れ味鋭く兜を断つ。忠臣いずれもみな勇士。武士ことごとく良き仲間。良き競争相手神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、その明らかなる御徳は太陽に等しい。世の中に栄枯盛衰の絶えることはない。時に正気が光り輝く。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

ここから「時代と場所を超越して顕現した(一階微分)気の結晶(二階微分)」の列記箇所。

乃參大連議 乃(すなは)ち大連の議に參し,
侃侃排瞿曇 侃侃(かんかん)瞿曇(くどん)を排す。
乃助明主斷 乃(すなは)ち明主の斷を助け,
燄燄焚伽藍 燄燄として伽藍を焚(や)く。

たとえば、欽明帝の御代のこと。物部尾輿(もののべのおこし)、中臣鎌子、大連(おおむらじ)の議にて、剛直なる正論をもって、蘇我稲目(そがのいなめ)の惑える仏教を排斥した。すなわち、英明なる帝の叡慮を助け、蘇我の仏像、海に捨て、私寺ことごとく焔をあげて焼きつくした。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

まぁ水戸藩といえば廃仏毀釈イデオロギーの大源流でもあるので多少はね?

中郞嘗用之 中郞嘗(かつ)て之(これ)を用ひ,
宗社磐石安 宗社磐石(ばんじゃく)安し。

たとえば、中臣鎌足、正気をおこなう。「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)。蘇我氏の専横、倒して皇室国家を磐石安泰ならしめた。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

淸丸嘗用之 淸丸嘗(かつ)て之(これ)を用ひ,
妖僧肝膽寒 妖僧肝膽寒し。

たとえば、和気清麻呂、正気をおこなう。宇佐八幡の御神託をいただいて、妖僧「弓削道鏡」、肝を冷やした。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

こちらも仏教批判…

忽揮龍口劍 忽(たちま)ち龍口の劍を揮(ふるひ)て,
虜使頭足分 虜使頭足分(わかた)る。
忽起西海颶 忽ち西海の颶を起して,
怒濤殱胡氛 怒濤胡氛を殱(ころしつ)くす。

同じく、北条時宗。建治元年(1275年)、降服迫る「元」の使節を虜にし、相模の国は竜の口にて切り捨てて、捕虜の首と胴を泣き別れにした。同じく、元寇襲来のとき、正気は玄界灘の猛風を起こし、怒涛とともに外国軍の異様な気配を滅ぼしつくした。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

こちらは攘夷論ですね。

志賀月明夜 志賀月明なる夜
陽爲鳳輦巡 陽(いつは)りて鳳輦(ほうれん)と 爲(な)りて巡(めぐ)る。

後醍醐帝の御代のこと。元弘の変(1331年)。倒幕の企て洩れて、志賀の比叡山に逃れた夜は明るい月夜。さらに藤原師賢(もろかた)ら、帝の御衣(みけし)を借り、帝の乗り物にて行幸を偽り、延暦寺へ。帝はその間に笠置の山へ移りたもう。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

そしておもむろに顔を出す「南朝正統論」…

芳野戰酣日 芳野戰酣(たけなは)なるの日
又代 帝子屯 又帝子に代って屯す。

南朝は吉野城の戦いたけなわなるとき、元弘三年(1333年)、護良(もりなが)親王の忠臣、村上彦四郎義光(よしてる)、正気を行う。帝子(大塔宮・護良親王)の身代わりに、落城さなか宮の鎧兜をいただき切腹す。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

或投鎌倉窟 或は鎌倉の窟に投じ,
憂憤正愪愪 憂憤正に愪愪(うんうん)。

あるいは、建武新政、護良親王、正気を行う。足利尊氏の誅殺くわだて、鎌倉は東光寺の土牢に幽閉さる。深い憂憤、苦悩のうちに弑殺さる。時に二十八歳。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

或伴櫻井驛 或は櫻井の驛に伴ひ,
遺訓何殷勤 遺訓何ぞ殷勤なる。

あるいは、楠木正成、正行(まさつら・11歳)父子の桜井の駅の別れのとき。正成四十三歳、正気を行う。生き延びて最期の一人になるとも帝を護れ、と遺言するは、なんとねんごろなことか。勝てぬ戦と知りながら、大楠公、湊川にて討ち死にす。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

この人物は太平洋戦当時戦意高揚に使われ、そのせいで敗戦後人気が凋落するという数奇な扱いの変遷を受けています。

或守伏見城 或は伏見城を守り
一身當萬軍 一身萬軍に當る。

あるいは、天下分け目の関が原、徳川家康が股肱の臣、鳥居彦右衛門元忠、主君の囮を買って出て伏見の城を守り奮戦。二千の手勢とわが身をもって、四万の敵に当たって討ち死にする。享年三十三歳。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

或殉天目山 或は天目山に殉(したが)ひ,
幽囚不忘君 幽囚君を忘れず。

あるいは、天正十年春三月、織田信長に敗れた武田勝頼、天目山にこもりいる。讒言にて幽閉されていた小宮山内膳正友信、主君の恩を忘れず、これが最期のお供だと、駆けつけ許され殉死した。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

承平二百歳 承平二百歳
斯氣常獲伸 斯氣常に 伸を獲る。
然當其鬱屈 然(しか)れども其の鬱屈するに當(あたり)ては
生四十七人 四十七人を生ず。

以来、太平の世は二百年。かくのごとく正気は、常に伸びるを得てきた。しかし、正気は、その鬱屈するときもあったが、赤穂義士の四十七人を生み出す。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

江戸時代からの人気コンテンツで「おかる/勘平」の様なラブストーリーや「四谷怪談」の様なホラー物も派生させてきました。

最近は流石に人気の翳りも?いやいや、まだまだ?

乃知人雖亡 乃(すなは)ち知る人亡す 雖(いへど)も,
英靈未嘗泯 英靈未(いま)だ嘗(かつ)て泯(ほろ)びず。
長在天地間 長く天地の間に在りて,
凛然敍彜倫 隱然彜倫(いりん)を敍(つい)づ。
孰能扶持之 孰(たれ)か能(よ)く之(これ)を扶持(ふぢ)す,
卓立東海濱 卓立す東海の濱(ひん)
忠誠尊皇室 忠誠皇室を尊び
孝敬事天神 孝敬天神に事(つか)ふ。
修文兼奮武 文を修むるは武を奮ふを兼ね
誓欲淸胡塵 誓つて胡塵を淸めんと 欲す
一朝天歩艱 一朝天歩艱(なや)み
邦君身先淪 邦君身先(ま)づ淪(しづ)む。
頑鈍不知機 頑鈍機を知らず
罪戻及孤臣 罪戻孤臣に及ぶ
孤臣困葛藟 孤臣葛藟(かつるゐ)に困しむ
君冤向誰陳 君冤誰に 向てか陳せん
孤子遠墳墓 孤子墳墓に遠(とほざ)かる
何以報先親 何を以てか先親に報(むく)ひん
荏苒二周星 荏苒(じんぜん)たり二周星
獨有斯氣隨 獨(ひと)り斯(こ)の氣の隨ふにあり
嗟予雖萬死 嗟(あゝ)予萬死すと雖(いへど)も
豈忍與汝離 豈(あに)汝(なんぢ)と 離るるに忍びんや
屈伸付天地 屈伸天地に付し
生死又何疑 生死又た何ぞ疑はん
生當雪 君冤 生きては當(まさ)に君の冤を雪(すす)ぎ
復見張四維 復(ま)た綱維を張らるるを見るべし
死爲忠義鬼 死しては忠義の鬼と爲り
極天護皇基 極天皇基を護せん。

すなわち、当時を知る人々が亡くなっても、英霊たちが滅んだことは、いまだかつてない。正気、とこしえに天地の間にあって、りりしく普遍の道を現し続ける。かくのごとき正気を、だれが助けて伸ばせるだろうか。人為でできることではない。抜きん出て立つ東海の日本の浜辺、忠誠つくして皇室を尊び、両親を敬うがごとくに、天津神につかえまつる。学問を修め、さらに武道をきわめ、誓って異国のけがれを払わんと欲す。ある日、時運、困難となり、水戸藩主・徳川斉昭の身は隠居謹慎を命ぜられて表より消え、幕府は時機を見るに頑迷にして愚鈍。藩主の冤罪は、一人残された腹心・東湖に及んで蟄居幽閉の身となった。東湖、蔦葛(つたかずら)のつるにからまれたごとく苦しみ身動きが取れない。藩主の冤罪、誰に向かって陳述できようか。わが身は、江戸の水戸藩下屋敷にあり、先祖の墓のある郷里からも遠ざかっている。どうやって亡父亡母のご恩に報いることができようか。いつしか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、おまえと離れることを忍べようか。わが命の絶えるも伸びるも天地の神におまかせする。生きようと死のうと、疑うことなどできようか。生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。

藤田東湖「和文天祥正氣歌」

いかにも漢文らしい激烈なディスクールですが、やがて水戸藩は当事者だけでなく血族まで殺し合う絶望的な内ゲバ状態に突入して自滅。そもそも勤王を掲げつつ現天皇の血統を否定する南朝正統史観だったし、廃仏毀釈運動は神仏分離運動にスケールダウンし、攘夷の意味も「夷狄を盲目的に打ち払う」から「列強の圧力に(その強さに学ぶ)富国強兵で対抗する」と換骨奪胎され、こうしたディスクール全体が滅びた古代種系統の様に外測化(「歴史の掃き溜め」送り=観測範囲外への放逐)される展開を迎えたという次第。

「正気」概念そのものが内包する先進性

十分な長文となったので細かい指摘は次回以降の投稿に回す事にしますが、私がこの二つの「正気歌」で気になってるのは普段あまねく分散して存在し検出不可能な「気」が時として凝集して有意水準を超え、さらには(珊瑚虫が珊瑚礁を形成する様に)後世に伝えられる事績を残していくというそのイメージ展開そのもの。意味分布論や遺伝子中立論と組み合わせると思わぬ発想の突破口が開けるかもしれません。

そんな感じで以下続報…


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