ああ、遂に番号キャラクターが尽きてしまった…以下の投稿についてのプロダクション・ノート的まとめ。
忘れ去られた「新儒教哲学勃興期」
本編で触れた「和俗童子訓(1710年)」は貝原益軒81歳の時に発表された日本初の体系的な教育書で、児童の発展に応じた随年教法に基づく点に特徴があり、寺子屋での教育や明治以降の小学校教育に強い影響を与えたとされています。そういう書物が刊行された歴史的背景は?
もし日本でも中華王朝や朝鮮王朝の様に科挙が履行されていたとしたら、こうした思想の分散幅は確保されてなかった事でしょう。
和俗童子訓の前近代性について
ChatGPTに尋ねたら「ChatGPTが「前近代性」なる語と同時発生率が高いと考える諸概念の羅列」となってしまいました。
「儒教道徳に基づく封建的価値観」「子供の個性や主体性の軽視」「性別役割の固定化」については、まず「君臣男女長幼の別」を重んじる伝統的儒教と、「教育とは子どもの心の中に収納されている「折り畳まれた大人」を取り出す作業である(個体発生が系統発生を繰り返すとする約説原理recapitulation theory=反復説)」と捉えた朱子学を分けて考える必要があります。後者は儒教の根本問題にして、科挙を正当化する理論だった朱子学の「格物致知」概念と密接に関連。そして当時の日本の時代精神は、前者については疑うところがなかった反面、後者については朱子学の理気二元論から、理を気の「条理」とみなす理気一元論的な立場をとり、本然の性と気質も一元論的に捉える陽明学的考え方に推移していったのです。
貝原益軒も、明確に気一元論の立場に転じたのは没年の「大疑録(1714年)」になってからだったものの、「和俗童子訓(1710年)」において既に限定的ながらピアジェの発達段階説の様に「子供には独自の発達段階があり、それに応じた教育(随年教法)が必要とされる」という立場と朱子学的格物致知より陽明学的実用主義を重んじる立場を打ち出していたのでした。
現代人としては、こうした教育課程の最終教程が「(当時の文書行政を支えていた)各種書状の読み書き」だった事に驚かざるを得ない。それはそれで当時なりの現実主義的結論だったのである。「小説」を格下と見做す「(天下の在り方について堂々と語る)大説」の概念がまだまだ現役だった時代の話…
そういえば「朱子学的思想の結晶」として語られる事もある文天祥「正気歌」も、現代人の観点からすれば気一元論としか見えなかったりする。あるいは陽明学(大陸での呼称は陸王学)的な理気一元論あたりなのかもしれないが、現代人にはもはやその違いが明瞭な形では認識出来ないのである。
その一方で、こうした貝原益軒の考え方が全く別の観点から同時代人より「前時代的」と認識され、超克されていく展開を迎えたのも事実。
養生訓(1712年)の以下の記述と表裏一体を為す考え方ですね。
何せ江戸幕藩体制化の日本の庶民は元禄時代(1688年~1704年)にはもう、都心部の豪商の心理を宴席で掴んだ井原西鶴(1642年~1693年)と、全国を結ぶ富農富商のネットワークたる株仲間に選ばれた松尾芭蕉(1644年~1694年)が文化的に鋭く対峙する独自性まで獲得していたのです。
今更「家業に専念せよ」といわれても、その内容自体が時代に合わせて変遷していきます。商業作物を栽培して換金する農家さえ、ある種の投機家としての才覚が要求される時代となったのです。武家とて人気職が番役(警備役)から役方(行政官僚)に推移し、その内容も勘定方から通詞方に推移。さらには価格革命による地税生活者没落の皺寄せが直撃した下級武士が下屋敷の長家で工場制手工業による内職体制を樹立する様な思わぬ生産革命まで勃発するに至ったのでした。
「年頃の娘が「伊勢物語」や「源氏物語」に耽溺するのは仕方ない。むしろ役者遊びなどで身を滅ぼさない様に読み書き算盤を教え日記の習慣をつけて自己管理能力を高めよ」といった身も蓋もない実践倫理は、まさにこうした時代の激流の中で必要に駆られて生み出されたものの一つだったという次第。
「マニ教の様な経緯で生まれ、マニ教の様な経緯で衰退した」石門心学
こうした江戸時代なりの葛藤が生み出した鬼子の一つが石門心学で、そこには当時なりのSustainability実現への気概が盛り込まれていたのです。
だから今日のSustainability観に従って語り直す事も出来たりする次第。試しにCnatGPTに語らせてみましょう。
それでは、この考え方の時代的制約とは? ChatGPTに尋ねたら、やはり「ChatGPTが「前近代性」なる語と同時発生率が高いと考える諸概念の羅列」となってしまいました。
とどのつまり石門心学とはマニ教同様、当時最先端の思想すなわち儒教、仏教、神道の教えを「ええとこどり」する形で大成功を収めたものの、全国に拡散するにつれそれぞれが各地域の伝統的思想の「ええとこどり」も続けた結果、全体としての矛盾が鬱積し最終的には何だか訳がわからなくなって衰退してしまったのでした。二宮尊徳の報徳思想は「太極」なる中心を掲げる事でその破綻こそ免れましたが、明治維新以降、その思想と国際的資本主義の擦り合わせに苦労したという次第。
エドモンド・バーク「時効の憲法」理論に基づく「儒教的伝統との訣別」
こうして最後に「君臣男女長幼の別を重んじる伝統的儒教」についてどう考えるかだけが残りました。教育勅語(1890年)にも「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セル(我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た)」「臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)」とありますが、こうした過去の伝統を引き摺る発言を現在に通じるように読み替えていくのもエドモンド・バーク(Edmund Burke, 1729年~1797年)の「時効の憲法」論の一環といえましょう。
既に「教育勅語」段階で「夫婦」「兄弟姉妹」は「朋友」同様並列関係に置かれ「親子関係」を「君臣関係」に擬える儒教的伝統からは脱却している点に注意。
なお日本に近代的資本主義が根付いて「雇用関係を君臣関係に擬えるのはおかしい」という発想が出てくるのは大正時代(1912年〜1926年)になってから。
英国で早くから女性や労働者の選挙権が政治的に重要な意味を持ったのは地域共同体の解体が進んでいたからで、しかもその拡大が保守党を利すると判明して以降は革新政党はむしろ運動の傍観や抑制に回っている。戦前日本で女性の選挙権獲得運動が不調だったのは、まだまだ現役の地域共同体だけを票田として意識すれば事足りたから。政治的現実主義の世界はかくの如し。
そういう観点から、現代漫画が「女房は3歩下がって主人の影を踏まず」なる章句をどう読み替えているかが興味深いという話ですね。
これ、そもそもの発想は絵的に「背の低い女性を背の高い男性の後ろに立たせると隠れて見えない」というところにありそうなのですが、それはそれとして名義立ては重要。
杜康潤「孔明のヨメ。(2011年~)」では本当にこれがこういう具合に「戦闘陣形」として登場してくるんですね。一方、原作四葉夕卜漫画小川亮「パリピ孔明(2019年~)』における「スイッチ」はこんな感じ。
「パリピ孔明」で興味深いのは、他人の目を意識する必要がないプライベートでは横並びに歩いている事、やはり縦に並ぶのは「戦闘陣形」の一種という訳です。
そういえば最近のカップルは外出時横並びに歩いているのが普通になりましたが、20世紀にはまだまだ男性が先導するケースが多く、これに着目したTV番組が後続の女性の頭部に視線検知カメラを取り付けたら尻ばかり見ていたと放送していました。銃で遠方から人体を狙う時の基本で「移動時、一番揺れない箇所」だからですね(前からだと股間、あるいは下腹部)。コンピューター・ゲームのTPS(Third-person shooter)で自キャラの尻ばかり見てるのも同じ原理に基づきます。
政治運動としてのフェミニズムの終焉
どんな政治運動にも終わりがあるとすれば、政治運動としてのフェミニズムが終わったのは2010年代だったと私は考えています。
もちろん「Pink Tax問題」の様な個別のテーマに立脚する市民運動はこれからも続きます。
ただ「儒教」の様な単位でイデオロギー的勝利を収める目が消えたというだけの話ですね。それは第三世代フェミニズムが「マニ教の様に「ええとこそり」で勝ち、マニ教の様に「矛盾の鬱積」で個体として準安定性を保てなくなり破裂して終わった」から。つまり現在なお残存してるのは「政治的フェミニズム運動の単なる残骸」に過ぎず、それはおそらくその反動として生まれた「反フェミニズム運動」とともに程なく対消滅を余儀なくされるであろうと予測しているという次第。
既に現代日本人は、上述の様な「新儒教運動の顛末」を心からの共感を伴って思い出す事が出来ません。「政治的フェミニズム運動」も、そういう段階に入ったという事です。そんな感じで以下続報…