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「#未来のためにできること」に応募してみました(11)日本独自のSustainability観の伝統について振り返る。

ああ、遂に番号キャラクターが尽きてしまった…以下の投稿についてのプロダクション・ノート的まとめ。

忘れ去られた「新儒教哲学勃興期」

本編で触れた「和俗童子訓(1710年)」は貝原益軒81歳の時に発表された日本初の体系的な教育書で、児童の発展に応じた随年教法に基づく点に特徴があり、寺子屋での教育や明治以降の小学校教育に強い影響を与えたとされています。そういう書物が刊行された歴史的背景は?

貝原益軒(1630年~1714年)の青年時代から壮年時代にかけての頃は新儒教哲学勃興期に当たり、近世思想生活の開明期ともいわれる時代だった。朱子学には長老の林羅山(1583年~1657年)があり、その子鵞峯(1618年~1680年)があり、山崎闇斎(1619年~1682年)が活躍していた。陽明学では、開祖の中江藤樹(1608年~1648年)こそ没していたけれど(益軒19歳の時)、熊沢蕃山(1619年~1691年)が後を継いで勢力の伸長を図り、古学では山鹿素行(1622年~1685年)や伊藤仁斎(1627年~1705年)があって、それぞれ独自の学風・学説を掲げていた。こうした儒教の勃興は、やがて教育思想と教育施設とのコペルニクス的展開の主要契機となって、近世教育を完全に中世教育から引き離す役割を果たしたのである。家職を継ぎ家格を保つ為にのみ機能した家訓・壁書・家憲などによる家族本意の教育から離脱して、儒教哲学に基づく理性開発主義の教育となった。秘伝・伝授による個別的な教育方法は敗れて一斉教授・共同学習が可能となり、ここに私塾・家塾の繁栄が生まれ、やがてくる学校制度への橋渡しとなった。素行や蕃山の教育論・学校論が現れたのも、こうした文化的な地盤の上においてだったのである。

上掲「養生訓・和俗童子訓」解説

慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っている。この時林羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張した。

林羅山の学問は、漢唐の旧注から陸象山・王陽明の学におよび、諸子百家から日本の古典にも通じたが、朱熹(朱子)の学問(朱子学)がその中心であり、特に師の藤原惺窩の没後は明確に朱熹の理気論(太極理気の論)の立場に立った。羅山は、朱子学者として、万物は「理」と「気」から成るとする理気二元論を説き、理法が諸現象を支配するのと同様に理性が情欲を支配することを理想とした(『三徳抄』)。そして、天(理気未分の太極)を自然・人文のいっさいの事物に内在化し、かつ天は気によって万象を創造し、理によって万象を主宰するものであるとして、この天のはたらき、すなわち「天道」をたすけることこそが人道であって、この人道の実践・履行が「格物」より始まると説いた。

羅山の人間論は、人間は、天理を受け、その本性は善であるが、情欲のために覆い隠されているために充分に発揮できないとするもので、学問によって宇宙をつらぬく理をきわめ、修養によって情欲を取り去るべきことを主張した。

上掲Wikipedia「林羅山」

儒学の学説の面では大きな功績を残さなかったが、林家の私塾を教科や教育課程の整備をすることで、幕府公認の学校(のちの昌平坂学問所)へと昇格させた意義は大きい。

なお、林家当代の主が大学頭(だいがくのかみ)と称したのは羅山の孫の3代・林鳳岡の代からであり、以後林家は代々幕府の教学の責任者としての役割を担い、駿河文庫の管理もおこなった。

上掲Wikipedia「林鵞峰」

朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。とりわけ、湯武放伐を否定して、暴君紂王に対してでも忠義を貫いた周文王のような態度を肯定したことに特徴がある。

「劉邦は秦の民であったし李淵は隋の臣であったのだから、彼らが天下を取ったのは反逆である。それは殷でも周でも他の王朝でも同じことで、創業の英主といわれていても皆道義に反しており、中国歴代の創業の君主で道義にかなっているのは後漢の光武帝ただ一人である」と述べて易姓革命を否定した。

またあるとき弟子たちに向かって「今、支那から孔子や孟子を大将として日本に攻めてきたらお前たちはどうするか」と問い、返答に窮した弟子たちに「そういう時は当然孔子や孟子と戦って、あるいは斬り、あるいは生け捕りにするのだ。それが孔子や孟子の教えだ」と説いた。

闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。

以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。

思想的衝突を生じて破門・絶縁した弟子が多く、政治の要請に対して主張を変えがちと揶揄された「林家」と対比する形で「林家の阿世、崎門の絶交」と言われた。

上掲Wikipedia「山崎闇斎」

高島郡小川村で農業を営む中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。

1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で私塾を開く。これが藤樹書院である。1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。

やがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられた。

上掲Wikipedia「中江藤樹」

京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれる。8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗ることとなった。

寛永11年(1634年)池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で、輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕する。寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず、一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻る。寛永19年(1642年)伊予国大洲藩を致仕し郷里の近江国小川村(現・滋賀県高島市)に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。

正保2年(1645年)再び京極氏の口添えで岡山藩に出仕する。光政は陽明学に傾倒していたため、藤樹の教えを受けていた蕃山を重用した。 正保4年(1647年)には側役、知行300石取りとなり慶安2年(1649年)には光政に随行し江戸に出府する。慶安3年(1650年)鉄砲組番頭、知行3,000石の上士に累進。慶安4年(1651年)「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の岡山藩藩学の前身となった。

承応3年(1654年)備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた(ただし新田開発に対しては一貫して否定的であった)。しかし、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらした。また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた。このため、1657年(明暦3年)、39歳で岡山城下を離れ、知行地の和気郡寺口村(現・岡山県備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされた。

万治元年(1658年)京都に移り私塾を開く。万治3年(1660年)には豊後国岡藩主中川久清の招聘を受け竹田に赴き土木指導などを行った。寛文元年(1661年)京都に居を移し、多数の家下・武士・町人に師事された。その名声が高まるにつれ再び幕府に監視されるところとなり、とうとう時の京都所司代牧野親成により京都から追放された。寛文7年(1667年)には大和国吉野山(奈良県吉野郡吉野町)に逃れた。さらに山城国鹿背山(現・京都府木津川市)に隠棲。

寛文9年(1669年)51歳の時、幕命により播磨国明石藩主松平信之の預かりとなって太山寺(現神戸市西区)に幽閉される。以後著述に専念した。『集義和書』を1672年(寛文12年)に刊行し、山・川・森を治めることを国土経営の基本とする考えをといた『集義外書』を1679年(延宝7年)に著した。延宝7年(1679年)信之の大和郡山藩転封に伴い、大和国矢田山(現・奈良県大和郡山市)に移住。天和3年(1683年)には大老堀田正俊の招聘を受けたが辞退している。

貞享4年(1687年)、『大学或問』が幕政を批判したとされ69歳の高齢にもかかわらず、幕命により松平信之の嫡子である下総国古河藩主・松平忠之に預けられ、古河城内の竜崎頼政廓に蟄居謹慎させられた。しかし、蕃山の治山治水の技術は古河藩でも頼りにされ、家老や藩士たちを指導することがあったらしい。古河市内の関戸には「蕃山溜」と呼ばれる溜池が残されている。また比較的自由に領内を歩き回れたようで、仕事帰りの農夫に呼びかけたものとされている自筆の詞句も残されている。元禄4年(1691年)病を得て古河城にて逝去。享年73。

上掲Wikipedia「熊沢蕃山」

貞享4年(1687年)成立の経世済民論の書。「或問ふ、、、云う」(書き下し文:或るひと…を問う、…と云う)という問答体で記されている。

時代に対する強い危機意識と実践的な打開策をのべている。武士、とりわけ君主の責務に対する深い洞察、治山・治水論など具体的提言、農兵論の展開と貿易振興、大名財政を圧迫している参勤交代の緩和等々述べている。

当然、鎖国制度など幕藩社会の根幹に関わる施策が含まれ、その内容が幕府にとって不都合であり、幕政を私議したかどにより蕃山は、下総古河に幽閉されている。そのため本書の公刊は、天明8年(1788年)となり、折しも寛政の改革の渦中にあったため発禁書となった。

しかしながら解禁後再度刊行され次の世代の荻生徂徠・頼山陽・横井小楠に影響を与え続け、幕末勝海舟も『氷川清話』の中で「儒服を着けた英雄」と述べている。

Wikipedia「大学或問」

陸奥国会津(福島県会津若松市)にて白河浪人(関氏)・山鹿貞以(山鹿高道とも)の子として本一ノ丁の町野邸にて生まれる。寛永5年(1628年)に6歳で江戸に出る。寛永7年(1630年)、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲、北条氏長の流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。

承応元年(1652年)に赤穂藩浅野家に君臣の礼を為す。万治元年(1660年)には、浅野候からの処遇に不満があり自分から致仕し去る。

寛文2年(1662年)頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究し、寛文5年(1665年)、天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている。 また「日用」の学を主張して、観念的な朱子学を糾弾した。

寛文6年(1666年)に北条氏長から呼び出しがあり、『聖教要録』が朱子学批判であることを理由に播磨国赤穂藩へ配流となり、大石良重宅の一隅で蟄居させられた。延宝3年(1675年)6月15日、許されて江戸へ戻る。江戸では弘前津軽家と平戸松浦家の支援を受け、「積徳堂」と称する自宅で山鹿流古学(聖学)を教えた。

上掲Wikipedia「山鹿素行」

京都の生まれ。『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重し、日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。朱子学から出発し後に反朱子学に転じ、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。

上掲Wikipedia「伊藤仁斎」

もし日本でも中華王朝や朝鮮王朝の様に科挙が履行されていたとしたら、こうした思想の分散幅は確保されてなかった事でしょう。

和俗童子訓の前近代性について

ChatGPTに尋ねたら「ChatGPTが「前近代性」なる語と同時発生率が高いと考える諸概念の羅列」となってしまいました。

貝原益軒の『和俗童子訓』(わぞくどうじくん)は、江戸時代における子供の教育に関する教訓書で、特に家庭教育や道徳教育に重点を置いた内容です。しかし、現代の視点から見ると、その思想には前近代的な要素が多く含まれています。

1. 儒教道徳に基づく封建的価値観
『和俗童子訓』は、儒教的な価値観に強く影響を受けています。特に親孝行、長幼の序、忠義などが重んじられ、子供には親に従順であることが求められます。この考え方は、個人の自由や平等を重んじる現代の価値観と大きく異なり、上下関係を強く意識した封建的な社会構造を反映しています。

2. 子供の個性や主体性の軽視
『和俗童子訓』では、子供を一律に教育することが推奨されており、子供の個性や主体性は重視されません。むしろ、子供は規律や親の期待に従って育つべきだという前提があり、これは現代の教育で重視される、個々の子供の特性や才能を尊重するという考え方と対立します。

3. 身体罰の容認
『和俗童子訓』では、子供が誤りを犯した場合には、身体罰も教育手段の一つとして容認されています。これは江戸時代の一般的な教育方針でもあり、子供に対する厳しいしつけが正当化されていました。現代では、身体罰は子供の権利を侵害し、教育方法として不適切だとされているため、この点は前近代的な要素の一つです。

4. 性別役割の固定化
本書では、性別による役割分担が明確にされており、男子は外に出て知識や武芸を学び、女子は家庭内で家事を習得することが期待されます。このような性別に基づく役割の固定化は、江戸時代の社会構造を反映したものであり、現代のジェンダー平等の観点から見ると前近代的です。

5. 自然災害や病気に対する神仏依存
『和俗童子訓』では、病気や災害に対する対応として、神仏に祈ることが勧められています。現代では、医療や科学技術の発展によってこれらの問題に対処する方法が大きく進展しましたが、前近代では科学的な理解が不十分だったため、宗教的な信仰が生活の一部となっていました。

結論
『和俗童子訓』には、儒教道徳や封建的な価値観、身体罰の容認、性別役割の固定化といった、前近代的な要素が数多く見られます。これらは、当時の社会や教育のあり方を反映しているものの、現代の教育理念や人権意識とは相容れない部分です。とはいえ、家族の絆や社会の安定を重視する姿勢は、現代でも考慮されるべき部分もありますが、全体としては当時の社会的・文化的背景に強く依存していると言えます。

和俗童子訓の前近代性について教えてください。
  • 「身体罰の容認」…一言も言及がありません。

  • 「自然災害や病気に対する神仏依存」…一言も言及がありません。

「儒教道徳に基づく封建的価値観」「子供の個性や主体性の軽視」「性別役割の固定化」については、まず「君臣男女長幼の別」を重んじる伝統的儒教と、「教育とは子どもの心の中に収納されている「折り畳まれた大人」を取り出す作業である(個体発生が系統発生を繰り返すとする約説原理recapitulation theory=反復説)」と捉えた朱子学を分けて考える必要があります。後者は儒教の根本問題にして、科挙を正当化する理論だった朱子学の「格物致知」概念と密接に関連。そして当時の日本の時代精神は、前者については疑うところがなかった反面、後者については朱子学の理気二元論から、理を気の「条理」とみなす理気一元論的な立場をとり、本然の性と気質も一元論的に捉える陽明学的考え方に推移していったのです。

格物致知(かくぶつちち)とは、儒学の術語で、伝統的に様々な解釈のある複雑な概念である。格致(かくち)とも略される。『礼記』大学篇(『大学』)の一節「致知在格物、物格而知至」に由来する。

とりわけ、宋代以降の朱子学において重要視され、格物窮理(かくぶつきゅうり)とも言い換えられた。すなわち『易経』説卦伝の一節「窮理盡性以至於命」(理を窮(きわ)め性(せい)を尽くし以て命(めい)に至る)の「窮理」と結びつけられ、「事物の理を探究する行為」を意味した。

唐までの伝統的な解釈である後漢の鄭玄(127年~200年)注では、「格」を「來」、「物」を「事」、「致」を「至」と解し、善や悪を深く知ることが善いことや悪いことを来させる原因になるとしていた。しかし、この一文はかつてはそれほど注目されたものではなかった。

重視されるようになったのは、北宋の程頤(1033年~1107年)が格物を窮理と結びつけて解釈してからである。彼は自己の知を発揮しようとするならば、物に即してその理を窮めてゆくことと解釈し、そうすることによって「脱然貫通」(だつぜんかんつう)すると述べた。

南宋の朱熹(1130年~1200年)はその解釈を継承し、『大学』には格物致知を解説する部分があったとして『格物補伝』を作った。ここで格は「至(いたる)」、物は「事」とされ、事物に触れ理を窮めていくことであるが、そこには読書も含められた。そして彼はこの格物窮理と居敬を「聖人学んで至るべし」という聖人に至るための方法論とした。この時代、経書を学び、科挙に合格することによって官僚となった士大夫に対し、格物致知はその理論的根拠を提供した形である。しかし、格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を広く含めた。そこから、近世以降の東アジアでは博物学(本草学や名物学)の営為が「格物」と表現されることもあった。また、清末中国の丁韙良『格物入門』、幕末日本の福沢諭吉『窮理図解』など、西洋の自然科学(自然哲学)を導入するに際しても「格物」「窮理」の語が使われた。

一方、明代の王守仁(王陽明、1472~1528)は、「格物」は外在的な物に至るというものではなく、物を「正す(格す)」として、自己の心に内在する事物を修正していくこととし、「致知」とは先天的な道徳知である良知を遮られることなく発揮する「致良知」だとした。ここで格物致知は自己の心を凝視する内省的なものとされた。また清初の顔元は「格物」を「犯手実做其事」(手を動かしてその事を実際に行う)とし、そうすることによって後に知は至るとした。ここで格物致知は実践によって知を獲得していくこととされている。

従って「致知在格物」の読み方もそれぞれ異なり、朱子は「知を致すは物に格(至)るに在り」と読み、王陽明は「知を致すは物を格(正)すに在り」としている。

上掲Wikipedia「格物致知」

貝原益軒も、明確に気一元論の立場に転じたのは没年の「大疑録(1714年)」になってからだったものの、「和俗童子訓(1710年)」において既に限定的ながらピアジェの発達段階説の様に「子供には独自の発達段階があり、それに応じた教育(随年教法)が必要とされる」という立場と朱子学的格物致知より陽明学的実用主義を重んじる立場を打ち出していたのでした。

第一は習字の学習において、まずは平仮名、カタカナ初め実用世帯から入って、漢字については真・行・草の三体を、この順序で学ばせようとしている点である。この様に実用書体を重んじているのは、益軒が上世の大学寮の様に子供を有能な官吏に仕立てるためでなく、貴族の様に自己の趣味に耽り宮廷に出入りして詩境を遊ばせる為のものでもなく、社会の日常生活そのものの中で生きてはたらく文字の有用性に目をつけ、その学習の重要性を認識した結果からであろう。

第二は平仮名の五十音、カタカナ、数の名、方の名、十干十二支、十二月異名、帝王名、国名尽、郡名、魚名尽くし、草木字尽くしの様な実用単語をまず実用単語をまず手習わせ、ついで俗語・俗文を織り交ぜた往来を学ばせ、さらに中国・日本における古典の学習へと進ませる教程をとっている点である。実用主義と子供の学習心理の発進過程を組み合わせたこの教育教程は、近世中期から後期にかけての教育に深甚な影響を及ぼすに至った。

第三は中国における儒教の儒教の古典だけでなく、歴史や文学、我が国O歴史・文学・地誌・民俗など極めて広い範囲に教材を求め、そのいずれもの学習の重要性を指摘している事である。この事は益軒が、単なる実用本意の、その場その場で、その時その時に役立つ人間を育てようとしていたのではなく、生まれながらにして「人間性」の尊厳に目覚め、その全面的発達に努め抜く人間の形成をこそ目指した野田、という事を証明している。

上掲「養生訓・和俗童子訓」解説
  • 現代人としては、こうした教育課程の最終教程が「(当時の文書行政を支えていた)各種書状の読み書き」だった事に驚かざるを得ない。それはそれで当時なりの現実主義的結論だったのである。「小説」を格下と見做す「(天下の在り方について堂々と語る)大説」の概念がまだまだ現役だった時代の話…

  • そういえば「朱子学的思想の結晶」として語られる事もある文天祥「正気歌」も、現代人の観点からすれば気一元論としか見えなかったりする。あるいは陽明学(大陸での呼称は陸王学)的な理気一元論あたりなのかもしれないが、現代人にはもはやその違いが明瞭な形では認識出来ないのである。

その一方で、こうした貝原益軒の考え方が全く別の観点から同時代人より「前時代的」と認識され、超克されていく展開を迎えたのも事実。

農商工の子には、いとけなき時より、只、物かき、算数をのみ教えて、その家業を専らにしらしむべし。必ず楽府淫楽、其外、いたずらなる無用の雑芸をしらしむべからず。これにふけり、溺れて、家業を務めずして、財をうしなひ、家を亡ぼせしもの、世に其のためし多し。富める人の子は、立ち振る舞い、飲食の礼などをばならふべし。必ずいましめて、無頼放逸にして酒色淫楽をこのむ悪友に、まじはらしむべからず。其にまじはれば、必ず身の行い悪しく、不孝になり、財をうしなひ、家を破る。甚だ恐るべし。

上掲上掲「養生訓・和俗童子訓」和俗童子訓第二巻「農工商の子には、習字と算数と家業を教えよ」

養生訓(1712年)の以下の記述と表裏一体を為す考え方ですね。

ある人の曰く、養生の術、隠居せし老人、また若くしても世を逃れて、安閑無事なる人は宜しかるべし。士として君父に仕へて忠孝をつとめ、武芸を習て身を働かし、農工商の夜昼家業を勤めていとまなく、身閑ならざる者は養生成り難かるべし。かかる人、もし養生の術をもっぱら行はば、其身やはらかに、其技ゆるやかにして、事の用にたつべからずという。是養生の術を知らざる人の疑ひ、むべかるかな。養生の術は安閑無事なのを専らとせず、心を静かにし、身を動かすをよしとす。身を安閑とするは、かへって元気とどこほりふさがりて病を生ず。たとへば流水は腐らず、戸枢(扉の回転軸の上下に設けられた心棒の突起や、その突起を枠のくぼみに入れて戸を回転させる仕掛け)は朽ちざるが如し。是動く者は長久なり、動かざるものはかへって命短し。是を以て四民ともに事をよく努むべし。安逸なるべからず。是すなはち養生の術なり。

養生訓第一巻「家業精励の中に養生がある」

何せ江戸幕藩体制化の日本の庶民は元禄時代(1688年~1704年)にはもう、都心部の豪商の心理を宴席で掴んだ井原西鶴(1642年~1693年)と、全国を結ぶ富農富商のネットワークたる株仲間に選ばれた松尾芭蕉(1644年~1694年)が文化的に鋭く対峙する独自性まで獲得していたのです。

戦の種が尽きて江戸幕藩体制が始まると参勤交代実施の為に全国の交通インフラが整備された事もあって今度は商業戦争が活発化。絹や紙や昆布といった日本国内ローカルの「世界商品」を巡って、各地大名に選抜された御用商人(元禄時代までに壊滅)や武家を支える米経済を握った畿内の豪商、全国の富農・富商の秘密ネットワークたる株仲間(非合法組織スタート)などが激しい生存競争を繰り広げたのです。

このうち「武家を支える米経済を握った畿内の豪商」に取り入って成功したのが井原西鶴(1642年~1693年)だとすれば、かかる大都市文化に対抗意識を燃やした「株仲間=全国の富農・富商の秘密ネットワーク」に「顔」として選ばれたのが松尾芭蕉(1644年~1694年)だったのです。

上掲「「#未来のためにできること」に応募してみました⑧とりあえず中締め」

今更「家業に専念せよ」といわれても、その内容自体が時代に合わせて変遷していきます。商業作物を栽培して換金する農家さえ、ある種の投機家としての才覚が要求される時代となったのです。武家とて人気職が番役(警備役)から役方(行政官僚)に推移し、その内容も勘定方から通詞方に推移。さらには価格革命による地税生活者没落の皺寄せが直撃した下級武士が下屋敷の長家で工場制手工業による内職体制を樹立する様な思わぬ生産革命まで勃発するに至ったのでした。

「年頃の娘が「伊勢物語」や「源氏物語」に耽溺するのは仕方ない。むしろ役者遊びなどで身を滅ぼさない様に読み書き算盤を教え日記の習慣をつけて自己管理能力を高めよ」といった身も蓋もない実践倫理は、まさにこうした時代の激流の中で必要に駆られて生み出されたものの一つだったという次第。

「マニ教の様な経緯で生まれ、マニ教の様な経緯で衰退した」石門心学

こうした江戸時代なりの葛藤が生み出した鬼子の一つが石門心学で、そこには当時なりのSustainability実現への気概が盛り込まれていたのです。

石門心学は、日本の江戸時代中期の思想家・石田梅岩(1685年 - 1744年)を開祖とする倫理学の一派で、平民のための平易で実践的な道徳教のことである[1]。単に、心学ともいう。様々な宗教・思想の真理を材料にして、身近な例を使ってわかりやすく忠孝信義を説いた。当初は都市部を中心に広まり、江戸時代後期にかけて農村部や武士を含めて全国的に普及した。明治期に衰退したが、現代でも企業道徳の一環として学ばれている。

上掲Wikipedia「石門心学」

だから今日のSustainability観に従って語り直す事も出来たりする次第。試しにCnatGPTに語らせてみましょう。

石門心学(せきもんしんがく)は、江戸時代の思想家・石田梅岩(1685-1744)が始めた倫理思想で、主に商人や庶民に向けた実践的な教えです。石田梅岩は、儒教、仏教、神道などの思想を取り入れながら、特に商人道徳を中心に、誠実で正直な生活を送りながらも経済活動を通じて社会に貢献することを強調しました。この石門心学の思想は、現代のサステナビリティの概念と多くの共通点を持っています。

1. 利他の精神と社会の調和
石門心学の中心には、「利他」の精神があり、自分の利益を追求するだけでなく、他者や社会全体の利益も考慮することが重視されます。商人がただ利益を追うだけでなく、社会に対しても貢献し、誠実な商売を行うことが理想とされました。これは現代のサステナビリティにおける「社会的持続可能性」や「社会的責任」と通じる考え方です。企業活動や経済発展は、社会全体や次世代に悪影響を与えない形で行うべきだという理念と重なります。

2. 資源の節約と倹約の精神
石門心学では、商売において無駄を避け、倹約することが重要だとされました。これは、個人や企業が限りある資源を無駄にせず、効率的に活用するという考え方です。現代のサステナビリティの観点では、限りある天然資源を持続可能な形で利用し、将来にわたって持続可能な経済活動を行うことが求められています。石門心学の「倹約」と「無駄を排除する」姿勢は、今日の環境保護やエコ意識とも一致しています。

3. 長期的視点の経済活動
石門心学は、短期的な利益ではなく、長期的な信頼関係を重視する商売を奨励しました。商人が誠実で正直な取引を続けることで、長期的には顧客や社会からの信頼を得て、持続可能な商売を行うことができるという考え方です。現代のサステナビリティにおいても、短期的な利益よりも、持続可能な長期的発展が重要視されます。企業が持続可能な経営を行うためには、環境、社会、経済の三つの要素をバランスよく考え、長期的な利益と責任を追求することが不可欠です。

4. 労働の価値と働く人々の尊重
石門心学では、働くこと自体が尊いものであり、商売人も労働者も正しい行いを通じて社会に貢献すべきだと教えています。この考え方は、サステナビリティの「公正な労働条件」や「人権の尊重」に通じます。企業が従業員を尊重し、公正な労働条件を提供することは、社会的な持続可能性の重要な要素の一つです。

結論
石門心学は、倫理的な経済活動や商業道徳を通じて、社会全体の調和を図ることを目指しており、現代のサステナビリティの概念と多くの共通点があります。特に、利他の精神、資源の節約、長期的視点での経済活動、労働の尊重などは、今日の環境保護や社会的責任を重視するサステナブルな発展の考え方に適合します。石田梅岩の思想は、江戸時代の社会に根ざしたものでありながら、現代社会でも適用可能な持続可能性の指針を提供していると言えるでしょう。

ChatGPTに質問「石門心学についてサステナビリティの観点から説明してください。」

それでは、この考え方の時代的制約とは? ChatGPTに尋ねたら、やはり「ChatGPTが「前近代性」なる語と同時発生率が高いと考える諸概念の羅列」となってしまいました。

石門心学(石田梅岩による心学)の特徴は、商人をはじめとする庶民の道徳的・精神的教化を目的とした学問で、以下のような特徴を持っています。

特徴:

1. 商人道の提唱:石田梅岩は、当時の封建社会において低く見られていた商人に対し、正直さや勤勉さを尊び、商売は道徳に基づいて行うべきと説きました。商業活動も社会的に価値のある行為と位置付けた点が画期的でした。
2. 心の修養:梅岩は、人々が身分に関わらず心の修養を行い、正直で誠実な生き方を追求すべきと説きました。心学は儒教や仏教、神道の教えを融合させ、人間の内面的な成長を重視しました。

3. 実用性と庶民教育:心学は、庶民の日常生活に即した実践的な教えを提供し、学問を特権階級に限定せず、広く庶民に浸透させようとしました。そのため、道徳的な行動や生活の質を向上させる実践的な教えが中心です。

限界:

1. 時代的制約:心学は商人を肯定する教えであったものの、封建制度を根本的に否定するものではなく、身分制度の枠組みを前提とした教えでした。したがって、社会の構造的な変革を促すものではなく、限られた範囲での改革に留まりました。

2. 商業活動の矛盾:石田梅岩の道徳観に基づく商売の教えは、実際の商業活動の中で利益追求と道徳のバランスをとることが難しい場面も多く、理想と現実の乖離が問題となることがありました。

3. 思想の普遍性の限界:儒教的な徳目を重視しているため、近代的な個人主義や自由主義の観点からは、その思想は保守的であり、変化する社会や経済の動きに対して柔軟性に欠けると評価されることもあります。

このように、石門心学は庶民の生活に密着し、道徳的な生き方を説いた点で重要な役割を果たしましたが、当時の社会構造の中では限界もありました。

CHATGPTに質問「石門心学の特徴と限界について教えてください」
  • 「封建制度を根本的に否定するものではなく、身分制度の枠組みを前提とした教えであり、社会の構造的な変革を促すものではなかった」…まさかの時に革命史観。江戸時代の身分制には「階級的人格というのは、それぞれの階層の人間にとって生得的なものではなく、(将校と兵卒といった)その生活上の立場が定めるものに過ぎない」なるアメリカ社会学的発想が確実に根付いていて、実際社会維持の観点から相応の流動性があったし、それだけでは不十分と判明した途端に一斉に放棄する知恵も働いています。石門心学の様な思想の働きももちろんあったのですが、日本の場合戦国時代に一円領主化が進んだのと価格革命が勃発した影響で英国同様権力問題と土地経営問題が切り離されたのが大きかったとも。

  • 「商業活動との矛盾」…これについてはむしろ石門心学の精神を継承した二宮尊徳の報徳思想が明治時代以降に直面した問題であった様です。

報徳の教えの中心的概念は大極である。この大極にそった実践を行うということが報徳教の根幹をなす。二宮尊徳はこの大極を『三才報徳金毛録』のなかで円を描くことによってしめしている。この円を分けることにより、天地・陰陽などの区別がうまれる。つまり、大極とは、すべてのものが未分化な状態、一種の混沌状態をさす。

大極はつねにそこにあるものであるため、人間が何をしようがつねに大極とともにある。しかしながら、人間は我であるため、つねに大極と何らかの関係をとらなければならない。そこから大極に対して積極的に向かう姿勢である天道と大極に消極的に向かう人道の区別が生まれる。

尊徳は、天道にのみそって生きるこころ構えを道心と呼び、人道にそって生きるこころを人心と呼んだ。道心とは、天の理にそって、私欲を捨て生きることである。人道とは我欲にとらわれた心であり、欲するばかりで作ることがない。心が人道に囚われた状態でいる限り人間は豊かになることができない。道心にそった生き方をして、初めて人は真の豊かさを実現できるのである。

ここで重要なのは、道心にそった生き方というのが何処までも実利的・実用的に説かれているところである。道心は、それが善だからなどの道徳的な理由で選択されるべきものなのではない。報徳教は単に、人心に従えば衰え朽ち、道心に従えば栄えるという道理を説くに過ぎないのである。

上掲Wikipedia「報徳思想」

とどのつまり石門心学とはマニ教同様、当時最先端の思想すなわち儒教、仏教、神道の教えを「ええとこどり」する形で大成功を収めたものの、全国に拡散するにつれそれぞれが各地域の伝統的思想の「ええとこどり」も続けた結果、全体としての矛盾が鬱積し最終的には何だか訳がわからなくなって衰退してしまったのでした。二宮尊徳の報徳思想は「太極」なる中心を掲げる事でその破綻こそ免れましたが、明治維新以降、その思想と国際的資本主義の擦り合わせに苦労したという次第。

「マニ教(最盛期4世紀~5世紀)」

所謂グノーシス信仰の一種だが、当時としての画期は、インドの仏教教団から仕入れた「修行僧の修行場を俗世に留まる平信徒からの人材供給と寄進で養うシステム」で自らを組織する事でグノーシス信仰全般が抱えていた「一切の肉体性を否定する立場ゆえに子孫が残せず、教統が続かない」問題を克服した点にあった。

当時のアフリカで活躍したラテン教父の一人聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年~430年)も一時期平信徒として入信。その経験を生かしてエジプトにおける「荒野で集団修行を遂行する伝統」とマニ教の組織を組み合わせ、後世の修道院/修道会システムの原型を創建したとされる。

上掲「4世紀から5世紀にかけて流行した「剣と法の天秤」信仰」

エドモンド・バーク「時効の憲法」理論に基づく「儒教的伝統との訣別」

こうして最後に「君臣男女長幼の別を重んじる伝統的儒教」についてどう考えるかだけが残りました。教育勅語(1890年)にも「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セル(我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た)」「臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)」とありますが、こうした過去の伝統を引き摺る発言を現在に通じるように読み替えていくのもエドモンド・バーク(Edmund Burke, 1729年~1797年)の「時効の憲法」論の一環といえましょう。

バーク保守主義はフランス革命により提示された〈社会契約〉ではなく、〈本源的契約〉を重視する。多年にわたり根本的に保持してきたものの中に本源的契約の存在を見、その表れである祖先から相続した古来からの制度を擁護し、それを子孫に相続していくとする政治哲学である。この故に、自然的に発展し成長してきた目に見えぬ〈法〉(コモン・ロー)や道徳、あるいは階級や国家はもちろんの事、可視的な君主制度や貴族制度あるいは教会制度においても、ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない時効の憲法があると看做す。

上掲Wikipedia「エドモンド・バーク」
  • 実は儒教的伝統は先験的に庶民の間に根付いていた訳ではなく、江戸幕藩体制化で国民意識形成が始まった事から、当時の臣民意識の頂点たる武家の倫理が末端まで浸透した結果と目されている。「教育勅語」の記述は、明治時代(1868年~1912年)段階のそれを特徴抽出したものとも目される。「南米解放の英雄」シモン・ボリバル(Simón Bolívar, 1783年~1830年)ではないが「我々は我々の近世を生きたのだ」の一言に尽きる話。

  • 既に「教育勅語」段階で「夫婦」「兄弟姉妹」は「朋友」同様並列関係に置かれ「親子関係」を「君臣関係」に擬える儒教的伝統からは脱却している点に注意。

  • なお日本に近代的資本主義が根付いて「雇用関係を君臣関係に擬えるのはおかしい」という発想が出てくるのは大正時代(1912年〜1926年)になってから。

  • 英国で早くから女性や労働者の選挙権が政治的に重要な意味を持ったのは地域共同体の解体が進んでいたからで、しかもその拡大が保守党を利すると判明して以降は革新政党はむしろ運動の傍観や抑制に回っている。戦前日本で女性の選挙権獲得運動が不調だったのは、まだまだ現役の地域共同体だけを票田として意識すれば事足りたから。政治的現実主義の世界はかくの如し。

そういう観点から、現代漫画が「女房は3歩下がって主人の影を踏まず」なる章句をどう読み替えているかが興味深いという話ですね。

これ、そもそもの発想は絵的に「背の低い女性を背の高い男性の後ろに立たせると隠れて見えない」というところにありそうなのですが、それはそれとして名義立ては重要。

杜康潤「孔明のヨメ。(2011年~)」では本当にこれがこういう具合に「戦闘陣形」として登場してくるんですね。一方、原作四葉夕卜漫画小川亮「パリピ孔明(2019年~)』における「スイッチ」はこんな感じ。

「パリピ孔明」で興味深いのは、他人の目を意識する必要がないプライベートでは横並びに歩いている事、やはり縦に並ぶのは「戦闘陣形」の一種という訳です。

「パリピ孔明」1巻
「パリピ孔明」3巻

そういえば最近のカップルは外出時横並びに歩いているのが普通になりましたが、20世紀にはまだまだ男性が先導するケースが多く、これに着目したTV番組が後続の女性の頭部に視線検知カメラを取り付けたら尻ばかり見ていたと放送していました。銃で遠方から人体を狙う時の基本で「移動時、一番揺れない箇所」だからですね(前からだと股間、あるいは下腹部)。コンピューター・ゲームのTPS(Third-person shooter)で自キャラの尻ばかり見てるのも同じ原理に基づきます。

政治運動としてのフェミニズムの終焉

どんな政治運動にも終わりがあるとすれば、政治運動としてのフェミニズムが終わったのは2010年代だったと私は考えています。

もちろん「Pink Tax問題」の様な個別のテーマに立脚する市民運動はこれからも続きます。

ただ「儒教」の様な単位でイデオロギー的勝利を収める目が消えたというだけの話ですね。それは第三世代フェミニズムが「マニ教の様に「ええとこそり」で勝ち、マニ教の様に「矛盾の鬱積」で個体として準安定性を保てなくなり破裂して終わった」から。つまり現在なお残存してるのは「政治的フェミニズム運動の単なる残骸」に過ぎず、それはおそらくその反動として生まれた「反フェミニズム運動」とともに程なく対消滅を余儀なくされるであろうと予測しているという次第。

既に現代日本人は、上述の様な「新儒教運動の顛末」を心からの共感を伴って思い出す事が出来ません。「政治的フェミニズム運動」も、そういう段階に入ったという事です。そんな感じで以下続報…

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